オランダ
オランダ王国(オランダおうこく)、通称オランダは、西ヨーロッパの立憲君主制の国。ヨーロッパ北西部に位置し、東はドイツ、南はベルギーと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクス三国と呼ばれる。憲法上の首都はアムステルダムだが、政治の中心は王宮の所在地であるハーグである。ヨーロッパの交通、交易の要所。リベラルな政策、気風。人口密度が高い。堤防により囲まれた低地。チーズ、チューリップ、風車で有名。有名な画家を多く輩出している。
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| 国の標語 : Je Maintiendrai (フランス語: 私は維持するだろう) | |||||
| 公用語 | オランダ語 (フリースラント州ではフリジア語も) | ||||
| 首都 | アムステルダム、ハーグ ¹ | ||||
| 最大の都市 | アムステルダム | ||||
| 女王 | ベアトリクス | ||||
| 首相 | ヤン・ペーター・バルケネンデ | ||||
| 面積 - 総計 - 水面積率 | 世界第131位 41,526;km² 18.4% | ||||
| 人口 - 総計(2004年) - 人口密度 | 世界第58位 16,318,199人 393人/km² | ||||
| GDP (PPP) - 合計(2003年) - 1人当たり | 世界第20位 4,614億ドル 28,600ドル | ||||
| 独立 - 宣言 - 承認 | スペインから(八十年戦争) 1581年7月26日 1648年10月24日 | ||||
| 通貨 | ユーロ ² (EUR, €) ※オランダのユーロ硬貨 | ||||
| 時間帯 | UTC +1 | ||||
| 国歌 | ウィルヘルム・ヴァン・ナッソウ | ||||
| ccTLD | .NL | ||||
| 国際電話番号 | 31 | ||||
| 注1 : 法律上の首都はアムステルダムだが、王宮、国会議事堂、政庁などはハーグにあり、こちらが事実上の首都となっている。 注2 : 1999年以前の通貨は、ギルダー | |||||
国名
正式名称は、Koninkrijk der Nederlanden(オランダ語: 発音)。通称は、Nederland(ネーデルラント)。俗称のHolland(ホラント)もよく使われる。
公式の英語表記は、Kingdom of the Netherlands(キングダム・オブ・ザ・ネザランズ)。通称は、Netherlands。Holland(ホランド)は俗称。
日本語の表記は、オランダ王国。通称はオランダ。漢字による当て字で、和蘭、和蘭陀、阿蘭陀と表記され、蘭と略される。また、オランダ語由来のネーデルラント(またはネーデルランド)、ドイツ語由来のニーダーラントと呼ぶこともある。
オランダ語のネーデルラントは、「低地の国」「低地地方」の意。ホラントは、スペインからの独立戦争で重要な役割を果たしたホラント州(現在は南北2州に分かれる)の名に由来。日本語のオランダは、ホラントのポルトガル語訳である Olanda が、ポルトガル人宣教師によって戦国時代の日本にもたらされたことによる。
歴史
ハプスブルグ家スペインとの80年戦争の結果、1648年のウェストファリア条約で独立を承認された。ネーデルランド共和国は17世紀初頭以来東インドに進出してポルトガルから香料貿易を奪い、オランダ海上帝国を築いて、黄金時代を迎えた。しかし、イングランドとの3度にわたる英蘭戦争で大きな打撃を受け、18世紀末にフランス革命が勃発すると、革命軍が侵入しバタヴィア共和国が成立した。間もなく、ナポレオンの兄ルイ・ポナパルトを国王とするオランダ王国に変えられ、さらにフランスの直轄領として併合された。ウィーン条約ではこれまでオーストリア領であった南部ネーデルランド(ベルギー)を含むオランダ王国が成立し、オラニエ家が王位に就いた。これが現在のオランダ王国の起源である。ただベルギーは1830年にオランダから独立していった。ナポレオン戦争後はイギリスが世界覇権を称え、オランダの海上覇権は地に落ちた。オランダは残された東インド(インドネシア)の領域支配を進める。第一次世界大戦では中立を維持したが、第二次世界大戦では中立宣言にもかかわらずナチス・ドイツに本国を占領され、東インド植民地も日本軍に占領された。大戦中、オランダ王家はイギリスに亡命した。戦後はインドネシア独立戦争を戦ったが、独立を承認せざるを得なかった。欧州ではベネルクス三国としてヨーロッパ共同体の創設メンバーとなり、ヨーロッパ連合に発展させた。
日本との関係
1600年4月に豊後国(大分県臼杵市)にオランダのデ・リーフデ号が漂着。徳川家康がこれを厚くもてなしたことから両国の関係ははじまった。江戸時代の鎖国中の日本(徳川幕府)の数少ない交易国の一つで、当時のヨーロッパの学問が蘭学の形で日本にもたらされた。
第二次世界大戦中はオランダが植民地支配していたインドネシアを巡って日本と戦争状態にあり、日本は短期間で現地のオランダ軍を降伏させ、民間人9万人、軍人4万人を捕虜にした。日本軍の捕虜となったオランダ軍人は強制労働などの虐待を受け、女性は強制的に従軍慰安婦にさせられたとされる。戦後オランダはこれらの日本軍人をBC級戦犯として逮捕、拷問、処刑を行った(連合国中で最も多い226人の日本人を処刑)。しかし無実の人も多く、オランダの単なる報復行為だったとする意見もある。
戦後もオランダでは反日感情が根強く、71年昭和天皇のオランダ訪問の際卵が投げつけられたり、手植えの苗を引き抜かれたりした。86年にはユリアナ女王の訪日が国内世論の反発により中止され、また91年に来日した女王は宮中晩餐会で日本の戦争責任に言及する異例のスピーチを読み上げた。95年村山首相は談話で「痛切なお詫びと反省」を発表。98年に橋本首相が改めて村山談話を再確認する書簡を送った。
賠償問題 オランダとの賠償問題は、1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書により、日本側は当時の金額で1千万ドルを「見舞金」名目で元捕虜や民間人へ支払った。この時の日蘭議定書第三条には「オランダ王国政府は、同政府又はオランダ国民が、第二次世界大戦の間に日本国政府の機関がオランダ国民に与えた苦痛について、いかなる請求をも日本国政府に対して提起しないことを確認する」とある。しかし、オランダの被害者や遺族が受けた癒しがたい傷は依然として残り、90年、対日道義的債務基金(JES)が結成され、日本政府に対して法的責任を認めて一人当たり約2万ドルの補償をもとめる運動がはじまった。これに対し日本は国民的な償いの気持ちをあらわすために、2億5500万円を支払い、01年「償い事業」が終了した。
政治
政体は立憲君主制で、国家元首はベアトリクス女王(1980年4月30日即位)。
議会は二院制で、第2院(下院)150名、第1院(上院)75名から構成される。
地方行政区分
| オランダ本土の州 州名は数字を、州都は丸印を参照せよ。 なお、星印は首都アムステルダム。 |
オランダ本土は12の州に分かれており、カリブ海には、海外領土(旧植民地)として、アンティルとアルバがある。
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