ウクライナ
ウクライナは東ヨーロッパの国。東でロシア、南で黒海、西でハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北でベラルーシに接し、ウクライナのクリム半島にはクリミア自治共和国がある。旧ソビエト連邦の中では比較的発展していた国。スラヴ系の民族が住み、文化的にもロシアとの関係が深い。
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| 国の標語 : Volia, Zlahoda, Dobro (ウクライナ語: 自由、調和、善良) | |||||
| 公用語 | ウクライナ語 | ||||
| 首都 | キエフ | ||||
| 大統領 | レオニード・クチマ | ||||
| 首相 | ヴィクトル・ヤヌコヴィッチ | ||||
| 面積 - 総計 - 水面積率 | 世界第43位 603,700;km² 極僅か | ||||
| 人口 - 総計(2004年) - 人口密度 | 世界第25位 47,732,079人 79人/km² | ||||
| GDP (PPP) - 合計(2003年) - 1人当たり | 世界第32位 2,565億ドル 5,300ドル | ||||
| 独立 - 日付 | ソビエト連邦より 1991年8月24日 | ||||
| 通貨 | グリブナ (UAH) | ||||
| 時間帯 | UTC +2 | ||||
| 国歌 | ウクライナは不滅なり | ||||
| ccTLD | .UA | ||||
| 国際電話番号 | 380 | ||||
国名
正式名称は、ウクライナ語でУкраїна(ラテン文字転写: Ukrayina、発音: ウクライナ)。
公式の英語表記は、Ukraine(ユークレイン)。
日本語の表記は、ウクライナ。稀にユクライナとも。
歴史
詳細はウクライナの歴史を参照
紀元前1000年頃よりウクライナにはさまざまな遊牧民族が到来した。紀元前8世紀頃、黒海北岸に至った騎馬民族のスキタイ人は、紀元前6世紀頃キンメル人を追い払って自らの国家を立て、紀元前4世紀にかけて繁栄した。黒海沿岸にはギリシャの植民都市が建設され、地中海やメソポタミア方面との交易を通じてペルシャ、ギリシャ、ローマの文化的影響を受けた。紀元前3世紀頃、中央アジアより来たサルマティア人の圧力を受けてスキタイは衰退した。2世紀頃に東ゴート族が侵入し、3世紀中頃クリミア半島に存続していたスキタイ人の国家を滅ぼした。これらの民族は交易や植民を盛んに行い、彼らが建設した多くの交易拠点は後に都市国家へと発展した。4世紀から5世紀にかけて民族大移動の発端となるフン族がこの地を通り抜けた。6世紀にはアヴァール族が侵入し、同じ頃移住してきたと考えられている東スラブ族を支配した。スラブ民族はウクライナ中央部と東部に居住し、キエフの建設と発展に重要な役割を担った。7世紀から8世紀にかけてはハザール汗国の支配下にあった。
9世紀頃、首都をキエフとする最初のスラブ人国家、キエフ・ルーシ(キエフ公国)が誕生した。この国家は現在のロシアやウクライナの源流だと考えられている。史料によると、現在のスウェーデン一帯からやって来たヴァイキング(ヴァリャーク)たちによって建国されたと記されている。彼らは、もともとこの地の住民であったルテニア人やウクライナ人としだいに同化していき、ウクライナで初めての強大な王朝であるリューリク王朝が繁栄した。988年ウラジミール公がギリシャ正教を受け入れた。10世紀および11世紀を通じて、キエフ・ルーシはヨーロッパにおける大国の一つであったが、12世紀以降内部抗争と遊牧民族の侵入により弱体化した。1240年モンゴルの侵略を受け滅亡し、キプチャク汗国が成立した。西部にハリチとヴォリニアという公国が存続したが、16世紀前後にポーランドとリトアニアによって征服された。
16世紀頃より、ウクライナ南部にポーランドやリトアニアから逃亡した農奴を中心とするウクライナ・コサックの国家が成立し、17世紀にはキエフを再建して本拠地とするなど勢力を拡大した。モスクワ大公国の度重なる侵攻にもかかわらず1世紀の間存続した。1648年には、ボグダン・フメリニツキーの指導するウクライナ・コサックとポーランドの間に戦争が始まると同時に、ウクライナ・コサックによるユダヤ人虐殺(ポグロム)も行われた。1654年ウクライナ・コサックはロシアの保護下に入る形で、ポーランドとロシアによって分割された。
1783年のクリミア汗国の併合などにより、ウクライナ東部と中央部はロシア帝国に併合され、西部はポーランドの支配を経た後、1772年のポーランド分割によってオーストリア=ハンガリー帝国の領土となった。19世紀に入ると、ロシア帝国の抑圧政策により、ウクライナ人の民族運動が盛んになった。
1917年のロシア革命を機にウクライナは独自の政府を組織して独立を宣言したが、ロシアの革命政府と対立し、内戦状態に陥った。1919年のウクライナ社会主義共和国の成立を経て、1922年ソビエト連邦の構成国となった。このとき西部の一部地域はポーランド領となった。ソビエト連邦下のウクライナは、農業の集団化政策などにより、2度の大飢饉(1921年-1922年、1932年-1933年)に見舞われ、学者の推定によると400万から1000万人が亡くなった。
第二次世界大戦が始まった1939年、ソ連はポーランドに侵攻し、占領した西ウクライナをウクライナに組み入れた。1941年以降の独ソ戦で赤軍が敗走を続ける中、キエフ包囲戦において、66万人以上のソ連軍兵士が捕虜となった。ナチス・ドイツ軍は最初ウクライナ人たちに「解放者」として暖かく迎え入れられたが、すぐにユダヤ人やウクライナ人の虐殺や追放が開始され、状況は以前よりも悪化した。ドイツの占領などによる大戦中の死者の総数は、虐殺されたユダヤ人50万人を含む700万人と推定されている。当時のソ連軍兵士1100万人の内、4分の1にあたる270万人がウクライナ人であった。
第二次世界大戦後、ウクライナ社会主義共和国の国境は西に拡大し、ほとんどのウクライナ人が単一国家の下に統合された。ソビエト連邦内では、ロシアに次いで2番目に重要な共和国となり、「ソ連の穀倉」と言われる農業、工業の成長があった。
1954年、ニキータ・フルシチョフにより、クリミア半島(クリム半島)がロシアからウクライナに移管された。これは、ポーランドに対抗するためにロシアとウクライナ・コサックの間で結ばれたペレヤスラフ条約締結300周年記念を祝うためであった。
1986年4月26日、チェルノブイリ原発事故が発生し、国内外に大きな被害が及んだ。(チェルノブイリ原子力発電所を参照)
1991年、ソビエト連邦の崩壊に伴って新たな独立国家ウクライナとなり、独立国家共同体(CIS)の創立メンバーの一員となった。
政治
詳細はウクライナの政治を参照
ウクライナの政体は、司法・立法・行政の三権が分立する議会制民主主義(共和制)である。 大統領は、5年任期で国民投票によって選ばれ、首相や政府の閣僚を任命する権限をもつが、それには議会の承認を得なければならない。
ウクライナ議会は、「最高会議」もしくは「ヴェルホヴナ・ラーダ」(Verkhovna Rada、ウクライナ議会または国会の意)と呼ばれ、一院制で450議席を有する。
半数の225議席は全国区の比例代表制によって選出されるが、政党は全投票の4%以上を獲得しなければ議席を得ることができない。残りの225議席は小選挙区制により選ばれる。
議員の任期は4年。議会は立法、国際協定の批准、予算の裁可を行う。
地方行政区分
ウクライナは、24の州と、クリミアにある1つの自治共和国、そして2つの特別市から構成される。
| チェルカスィ(Cherkasy) チェルニヒフ(Chernihiv) チェルニフツィ(Chernivtsi) ドニプロペトロフスク(Dnipropetrovs'k) ドネツク(Donets'k) イヴァノ=フランキフスク(Ivano-Frankivs'k) ハリコフ(Kharkiv) ヘルソン(Kherson) フメリニツキィ(Khmel'nyts'kyy) キロヴォフラード(Kirovohrad) キエフ(Kiev)- 首都および特別市 キエフ - 州 ルハンシク(Luhans'k) リヴィフ(L'viv) | ミコライエフ(Mykolayiv) オデッサ(Odessa) ポルタヴァ(Poltava) クリミア自治共和国 リヴネ(Rivne) セヴァストーポリ(Sevastopol)- 特別市 スムィ(Sumy) テルノポリ(Ternopil') ヴィンニツァ(Vinnytsya) ヴォリン(Volyn) ザカルパッチャ(Zakarpattya) ザポリズズヤ(Zaporizhzhya) ジトミル(Zhytomyr) |
地理
ウクライナの国土のほとんどは、肥沃な平原、ステップ(草原)、高原で占められている。ドニエプル川、ドネツ川、ドニエステル川が横切っており、南のバグ川とともに、黒海、アゾフ海に注ぎ込んでいる。
南西部にあるドナウ川のデルタ地帯はルーマニアとの国境になっている。
山岳地帯は、クリミア半島の最南端の沿岸部と西部のカルパチア山脈にしかない。最高峰はカルパチア山脈にあるホラ・ホヴェルラ山(Hora Hoverla)で標高2,061メートルある。
気候は温暖な大陸性気候であるが、クリミア半島の南岸は地中海性気候により近い。降雨量は局所的に偏っており、北部や西部は多く、南部や東部は少ない。冬は黒海沿岸は涼しいが、内陸に行くに従って寒くなる。夏はほとんどの地域で暖かいが、当然南に行くほど暑い。
経済
詳細はウクライナの経済を参照
ソビエト連邦時代は、連邦内の重要な農業および産業地帯であったが、現在は天然ガスを中心とするエネルギー供給のほとんどをロシアに依存しており、経済の構造改革の遅れと相まって、他国の影響を受けやすいものになっている。
1991年、政府はほとんどの物資の価格を自由化し、国有企業を民営化するための法制度を整備した。しかし、政府や議会内で強い抵抗が起きたことから、すぐに改革は停止され、過去に逆行するような政策がとられた。1999年の生産高は、1991年の40%にまで落ち込んだ。1993年の末頃には、通貨政策の失敗によりほとんどハイパーインフレーションの段階にまで至った。
現在の政府は、経済への介入を極力減らし、調整方法を合理化することに努めるとともに、企業家を支援する法環境を整備し、包括的な税制の改革を行った。ただし構造改革の政治的な問題に関わる分野や農地の民営化に関する改革は遅れている。
国際通貨基金(IMF)を初めとする国際機関は、金融支援を早く引き上げられるように、ウクライナの改革の進展と範囲の拡大を支援している。
2000年の国内総生産(GDP)は、輸出の伸びに支えられて6%という成長をみせ、工業生産高の成長も12.9%だった。これは独立以来初めての上方成長であった。経済の成長は2001年も続き、実質国内総生産で9%、工業生産高で14%以上伸びた。成長は強い国内需要と消費者と投資家の信用の増大に支えられている。
国民
詳細はウクライナの国民を参照
民族構成は、全人口の75%がウクライナ人で、ロシア人が20%である。他に少数派として、ベラルーシ人、モルドヴァ人、クリミア人、タタール人、ブルガリア人、ハンガリー人、ルーマニア人、ポーランド人、ユダヤ人がいる。
東部や南東部の産業地帯は最も人口が集中しており、全人口の70%が都市部に住んでいる。
主要な言語は、ロシア語と公用語であるウクライナ語である。ロシア語は非常に広範囲に渡って話されているが、ほとんどの人はウクライナ語が母国語であると考えている。
主な宗教は、東方正教の一つであるウクライナ正教と、ウクライナ・カトリックである。ウクライナ正教の大部分はモスクワ主教に属するが、ウクライナの独立とともに、モスクワ主教から分離独立したキエフ主教が設立された。他に少数派として、ウクライナ自治正教会、ローマ・カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、イスラム教の共同体がある。
文化
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
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関連項目
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外部リンク
公式
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