モンゴル帝国
モンゴル帝国(1206年 - 1260年?)は、チンギス・ハーンが創設した帝国。モンゴル語ではイェケ=モンゴル=ウルス。その後継者たちは領土を拡大し、東ヨーロッパ、ロシア、小アジア、 メソポタミア、ペルシャ、アフガニスタン、チベット、中国などユーラシア大陸にまたがる史上最大の帝国を創り上げた。元も参照せよ。モンゴル帝国の終焉をどこと取るかは色々とあるが、1260年の元の成立によりモンゴル帝国が分裂したと見る事が多い。
略史
チンギス・ハーン時代
12世紀当時の東アジアの覇者である金はモンゴル高原の諸部族に対して統制力を働かせていたが、金が衰退し始めるとモンゴル人にも勢力拡大の好機が訪れた。モンゴルの諸部族は互いに激しい抗争を繰り返しながらも統一への道を歩みだしたのである。こうした抗争の中でキヤト族長であった父を幼年期に暗殺されたテムジンは、辛酸を嘗めながらも成長すると離散していた一族をまとめ父を暗殺したタタール部に復讐した。さらに有力なケレイト部を屈服させモンゴルを統一すると、1206年、クリルタイにて推戴されてテムジンは大ハーンの地位に就き、チンギス・ハーンと称する。
大ハーン位に就いた後もチンギス・ハーンは積極的に周辺諸国に遠征して、東は金の領土の大半を奪い、西夏・西遼などを滅ぼし、西ではホラズム王国などを滅ぼして、東は満州から西は中央アジアの大半・南ロシアにまで広がる大帝国・モンゴル帝国を成立させた。
オゴデイ時代
1227年、チンギス・ハーンは金への遠征途上で死去すし、英雄を失った帝国は分裂の危機を迎える。遊牧民族の国家と言う物は膨張する時は急激に膨張するが、それが分散するときもまた急激であった。チンギスの後継者としてモンゴルの習慣である末子相続により末子トルイが最有力であったが、チンギスの次男チャガタイが自分と仲が良いオゴデイを強力に推戴し、トルイが譲ったためにオゴデイが大ハーンとなった。更にトルイが本来相続すべきモンゴル高原の本拠地をオゴデイに譲って帝国の揺らぎを食い止めた。国内を治めたオゴデイは1234年に金を完全に滅ぼした後は内政に入る。1235年に首都をカラコルムに造成し、領内全土を結ぶ情報網であるジャムチ(駅伝制度)を整備した。そして同年にクリルタイを開いて東西二つの遠征を決行する事に決定し、また10分の1税(遊牧民には家畜100に対して1が、農耕民には10の収穫に対して1が税となる制度)を帝国全土に適用する事を決めた。
翌1236年に両遠征軍が出発した。西の遠征はバトゥを総司令とするロシア・ヨーロッパへの攻撃であり、東の遠征はオゴデイの三男のクチュを総司令とする南宋攻撃である。西征軍は快進撃を続けブルガル・ロシア諸侯を征服し、1241年のワールシュタットの戦いではポーランド・ドイツ・ハンガリーの連合軍を撃破し、ヨーロッパに恐怖を与えた。しかし東征軍は遠征途中でクチュが死去した事により南宋軍に苦戦を強いられた。
この遠征はワールシュタットの戦いの8ヵ月後にオゴデイが死去した事により、中断せざるを得なくなる。更に同時期にチャガタイが死去した事で帝国は再び分裂の危機を迎えた。
その中でオゴデイの妻ドレゲネは権力を志向し、翌年自ら摂政となって自らの息子グユクをハーン位に就けた。
モンケ時代
しかしグユクは即位後2年足らずで死去する(モンケによる暗殺説もある)。トルイの嫡長子モンケがバトゥとその権力母体であるジョチ・ウルスの後押しを受け、大ハーンの継承に乗り出した。ジョチ・ウルスは征西により領土を拡大して強大となっており、その力を持ってチャガタイ家・オゴデイ家らの反対を退けてハーン位に就いた。その後、モンケは不満を抱くチャガタイ家・オゴデイ家に弾圧を加えて、その所領の大半を没収し、自分に協力したジョチ・ウルスに与えた。
内政面では領内の東西に財務官を置いて財政の再建に当たらせると同時に、それらの財務官はカラコルム直属として大ハーンへの権力集中を狙った。
これらの諸策でオゴデイ死去以来の混乱を収めたモンケは外征を始める。1253年に弟クビライを総司令とする軍を送って大理国を征服、西には弟フレグを総司令とする軍を送ってイスラーム諸侯を服属させ、1258年にアッバース朝を滅ぼした。
それと前後して1257年、南宋を滅ぼすためにクビライなどを引き連れて自ら親征し、モンゴル高原の留守には末弟のアリクブケに任せた。しかしモンケはこの遠征途上で死去する。
クビライ時代
モンケの訃報に接したアリクブケはモンゴル高原でハーン位に就き、同時にクビライもハーン位に就いた。この争いはクビライの勝利に終わり、クビライが大ハーンとなる。同時に西に遠征していたフレグはイランを中心としたイルハン朝を建ててクビライの大ハーン即位を承認した。
しかし1266年、これに不満を持ったオゴデイ家のカイドゥがクビライに対して反旗を翻した。この時から元朝・チャガタイ・ハン国、ジョチ・ウルス、イル・ハン国の4ハン国はそれぞれ独自の道を歩むようになり、モンゴル帝国は統一帝国から緩やかな連合帝国に変化し、大ハーンたるクビライの宗主権はあったもののチンギスのように強力に帝国を統合する事は既に不可能となった。
(その後の各ウルスに関しての細かい歴史についてはそれぞれ元・チャガタイ・ハン国・ジョチ・ウルス・イルハン朝を参照。)
パクス・モンゴリカ
1294年にクビライが死去し、カイドゥも1301年に死去した後は各ウルス同士での抗争も収まり、ユーラシア大陸に平和の時代が訪れた。当時最先端の海洋技術を誇っていた南宋を元が征服した事に伴い、モンゴル各地を結ぶ海路が整備され、同時に陸路を結ぶジャムチ制度も整備され、ユーラシア大陸を東西に貫く大交易網が完成した。この時代の事をパクス・モンゴリカ(モンゴルの平和、パクス・タタリカとも言う)と呼ぶこともある。
帝国の瓦解
その平和もペストの大流行や天災などに祟られて徐々に崩れていく。まず1335年にイルハン朝の血筋が途絶え、その後のイルハン朝は分裂する。チャガタイ・ハン国は国内の東西での反目が激しくなり1348年に東西に分裂する。元も1368年に明に北に追われて北元となり、ジョチ・ウルスもモスクワ大公国・ティムール朝の圧迫を受けて衰退して行く。こうしてモンゴル帝国は各地に分散して行き、帝国は完全に瓦解した。
帝国の余光
しかしその後もチンギス・ハーンの存在とその血統は神聖であり続け、かってのモンゴルの支配地ではチンギス・ハーンの末裔たち(あるいはそう名乗る者達)により興亡が繰り広げられていった。1370年、チンギス・ハーンの後継者を名乗るティムールはティムール朝を興してモンゴル帝国の再建を目指した。1540年、チンギス・ハーンの血を引くバーブルがインドに侵入してムガール帝国を建設した。1783年にクリミア・ハン国がロシア帝国に併合され、1857年にムガール帝国の滅亡によってチンギス・ハーンの血を引く王朝は消滅した。
社会制度
モンゴル帝国は兵政一致の支配制度を採用し、チンギス・ハーンは千戸長を制度化して末端諸部族を支配した。ジャムチと呼ばれる駅伝制を整え1日100km以上もの速さで、大ハーンの命令を帝国細部にまで行き届かせる事ができた。統治機構は民族別のピラミッド型をなしており、全人口100万人にすぎないモンゴル人が社会の頂点に立って、圧倒的多数の被支配民族を支配していた。モンゴル人の下には、早い時期からモンゴル帝国の支配下に入った100万人の色目人と呼ばれる中央アジアの人々が徴税などの行政を担当し、その他の被征服民を管理した。モンゴル人はこれら被征服民から税や朝貢の形を取って富を収奪するとともに、 馬丁銀と呼ばれる銀貨を鋳造して帝国内に流通させ経済を活性化させた。
東西交流と文化
辺境に住んでいたモンゴル人は文化が低く見られがちであるが、彼らは平時には商人として活動することもあり、異文化に接する機会も多かったことから排他的で遅れた民族ではなかった。実用的な技術が尊ばれ観念的な学問は無視される傾向が強かったが(例えば儒教など)、歴代の指導者は進取の気性に満ちており、経済や文化の重要性をよく認識していた。モンゴル帝国の支配の下にパックス・モンゴリカと呼ばれる平和な時代が続き、文化の交流・学芸の隆盛をみた。モンゴル語を表記する文字としてラマ僧パスパによってパスパ文字が考案され公用文字として使われた。宗教には寛容で、モンゴル人は主にラマ教を信仰したが、被支配者が特定の信仰を強要されることはなかった。
また、シルクロードや草原の道などの通商路が確保されたため東西交流が盛んになり、プラノ・カルピニ、モンテ・コルヴィノ、マルコ・ポーロ、イブン・バトゥータなどの宗教家、文化人、商人たちがモンゴル帝国を訪れた。
軍事制度
モンゴルの軍隊は遠征にあたって1人7~8頭の馬を連れて行ったため、乗り換えによって速い移動速度が保たれ、主力の軽装騎兵は1日70kmを走破した。またこれらの馬は肉・鏃・弓の弦などにもなったため補給の心配も少なかった。匈奴やスキタイ以来の戦術である遠巻きの騎射によって白兵戦を避けたので損害は最小限にとどまった。モンゴル軍は征服地の人々を加えて成長していったため兵器も多様で、攻城戦などそれまで経験していなかった戦闘にも対応することができた。軍規違反には過酷な刑罰が科せられ、革袋に詰めて馬で生きたまま平らになるまで踏みつぶしたり生きたまま釜ゆでにしたりすることもあった。千戸長が率いる軍団は日常でも共同生活していたため日頃から訓練が行き届いていて、鉄の団結を誇っていた。千戸長は大ハーンの命に従ってこれら強力な軍団を引き連れて遠征に参加したのである。
モンゴル軍は降伏勧告に従わなかった都市を攻略すると指揮官の命令によって、三日間で全ての住民を虐殺し財産を奪い尽くしたという。確かに元寇の際には捕虜の掌に穴を空けて連行したと伝えられており、キエフなどは陥落後10年経っても人間の姿が見られなかったといわれる。しかしこのような逸話には誇張もあると思われ、恐怖のモンゴル軍のイメージは、戦わずして敵を降伏させるために使われた情報戦術のひとつだったと考えられる。
軍事的失敗
軽装騎兵を主体としていたモンゴル軍は平原地帯での戦いで真価を発揮したが、森林地帯、暑熱の砂漠地帯、海上での戦いにはその機動力がいかされなかった。元の時代になると兵の多くが戦意の乏しい被支配民族から構成されることになったため多くの遠征で失敗を招く原因となった。
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