プロテスタント
プロテスタントは、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に福音主義を理念とするキリスト教諸派の総称である。ただし、聖公会(英国国教会)はカトリック教会から分離した教派ではあるが、プロテスタントを自称しない。
なお、カトリック教会や東方正教会は基本的にはそれぞれ統一された組織をなし、教義を共有する。
これに対し、プロテスタントは神学や教義解釈がそれぞれ異なる、多数の教派の集合体である。
歴史
当時のカトリック教会や神聖ローマ帝国の腐敗に対する反発や様々な政治的な思惑から、1517年以降、マルティン・ルターらによりカトリック教会の改革を求める宗教改革運動が起こされた。彼らは洗礼と聖餐以外の教会の諸秘跡を排し、聖書に立ち返る福音主義を唱え始め、またそれまでラテン語にしかなかった典礼や聖書をドイツ語訳化など、著しい改革を行い、次第にルター派の信者・勢力は増加していった。また、ルターは信仰義認という教理を提唱した者としてよく知られている。ルター派の特に信仰義認に対して、カトリック教会のトリエント公会議などにより排斥される。その結果として別個の教派を築くこととなった。1524~1525年、農民の不満を背景に、急進派トーマス・ミュンツァー率いる武装農民が蜂起し、これに対してルター派の諸侯らと激く衝突、いわゆるドイツ農民戦争を勃発した。これで多くの犠牲が生じた。1529年にルター派の諸侯や都市が神聖ローマ帝国皇帝カール五世に対して宗教改革を求める「抗議書(プロテスタティオ)」を送った。以降、この派は「抗議者(プロテスタント)」と呼ばれるようになった。
以後、宗教抗争は政治権力抗争ともからみ、内乱状態は30年間続いた。内乱終結のアウグスブルグの和議(1555年)により、プロテスタントもカトリック教会と同等の信教の自由の地位を保証されることとなる。ルター派は北方に広まり、デンマーク・スウェーデン・ノルウェーで国教となった。
ドイツ改革とほぼ同時期に、スイスでも宗教改革運動が起こった。カトリック司祭のツヴィングリは聖書のみ、信仰のみという教理を展開し、彼の弟子たちから幼児洗礼を否定し再洗礼を認めるアナバプテスト派が生じ、後に改革派からも排斥されることになる(ウェストミンスター教会会議)。また、ツヴィングリは、聖餐論においてルター派と対立することになる。
内乱状態の後を受けて、ジャン・カルヴァンが登場し、彼はツヴィングリを受け継いでスイスにおける宗教改革の指導者となる。カルヴァンは新しい教会の組織制度として長老制を提唱した。オランダに伝わったカルバン派が改革派と呼ばれ、イギリスに伝わったカルバン派が長老派(その後アメリカへ)と呼ばれる。また、カルヴァンは予定説を提唱し、カルヴァン派で受け継がれ、カルヴァン主義とも呼ばれる。予定説も、ルター派と同じくトリエント公会議で排斥の対象となる。カルヴァン派は、混乱から社会を救うため、宗教と政治、教会と国家を明確に機能区分することを提唱する。また一般市民の信仰生活に対して、世俗職業を天命(神の召命)とみなして励むこと、生活は質素で禁欲的であること等を説き、プロテスタント精神を確立させた。カルヴァン主義は、西方のフランス・オランダ・イギリス・アメリカへ広がった。後に、オランダ改革派から、カルヴァン主義の予定説に反対し、ヤコーブス・アルミニウスとその後継者によってレモンストラント派(アルミニウス派)が現れる。1610年、改革派はドルト会議にて、アルミニウス派を異端として排斥する。このアルミニウス派の思想は、後にメノナイト派、ジェネラル・バプテスト派(普遍救済主義のバプテスト)、メソジストのウェスレー派などに継承されることになる。
16世紀末頃、英国国教会の内部において、ピューリタンと呼ばれる改革派教会の方向へ改革を求める者らが現れた。更にこの改革運動を急進的にし、国教会から非合法に教会を建てようとする者らが現れ、彼らは分離派と呼ばれる。ピューリタンおよび分離派は、国教会の特に監督制に反対し会衆制を主張した。分離派は、国教会から分離せずに内部から教会改革を志すピューリタンに対しても、偽りの教会に属するとして相互聖餐を拒否していた。英国の分離派の思想は、ロバート・ブラウン(Robert Browne)に始まったとされる。これがやがて、ジェネラル・バプテスト派の母教会の牧師ジョン・スマイス(John Smyth)に受け継がれる。スマイスはジェネラル・バプテスト派の創始者トマス・ヘルウィス(Thomas Helwys)に恩師として影響を与えた。ただし、当時ウォーターランド派メノナイトとの合併を考えていたスマイスが、ヘルウィスに対して具体的にどれだけの影響を与えたかは、教理史的議論の決着がなされていない。またパテキュラー・バプテスト派は、元英国国教会司祭であったヘンリー・ジェイコブ牧師により発足した非分離派会衆主義教会から、より分離派的教会を求めて離脱した者ら数十名が、再洗礼を行って教会を新設したことにはじまったとされる。
18世紀、英国のオックスフォード大学内でジョン・ウェスレーが指導するグループから始まった運動が、英国全土にメソジスト(方法論者)という名で広がるようになった。そして、この運動はアメリカに渡ったが、独立戦争が始まる際に一部英国に帰国することとなった。1784年アメリカに残ったメソジスト宣教師らを監督教会として認める25箇条のメソジスト憲章が定められる。1845年、米国のパティキュラー・バプテスト派は、奴隷問題と国外伝道政策に関する見解の相違で北部バプテスト同盟(現在の米国バプテスト同盟)と南部バプテスト連盟とに分裂する。この頃、米国メソジスト教会にも同様の分裂が起こるが、やがて分裂は終結する。19世紀後期のアメリカのメソジスト系統からホーリネス派が起こり、これを基盤にペンテコステ派が起こる。さらにペンテコステ派によるペンテコステ運動は他教派におよび、聖霊派として知られている。また、カリスマ派はペンテコステ派から起こるが、WCCに加盟したことにより、エキュメニズムに反対するペンテコステ派から排斥される。 同じく18世紀、アメリカで再臨運動が起こり、エレンG.ホワイトらが活発に活動し、日曜ではなく、旧約律法通りの土曜を礼拝日とするSDA(セブンスデ-アドベンチスト 教会)が組織化される。
参考サイト
プロテスタント教理史
プロテスタンティズムと近代社会
社会学などで研究、議論の対象となるヨーロッパの近代化は、プロテスタントによって担われたものだとする説がある。
その最も有名な説はマックス・ウェーバーによる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に展開されたもので、清教徒など一部のプロテスタントが労働者としては合理的に効率性、生産性向上を追求する傾向を持っていたことを指摘している。ウェーバーによれば、プロテスタントの教義上、現世における成功は神の加護の証であるということになり、プロテスタントは与えられた仕事を天職のように考えてそれに打ち込むことで自分が神に救われる者のひとりである証を確認しようとしたという心理があるという。
また、ダニエル・ベルは『資本主義の文化矛盾』で、このような合理主義の精神が、芸術におけるモダニズムの運動と共に、近代社会のあり方を規定した主要因であったとする。また、1960年代以降、消費社会と結びついたモダニズムの影響力が拡大し、プロテスタンティズムに由来する近代の合理主義を脅かしているとも診断する。
プロテスタントと近代の関わりについてはもうひとつ、異なる側面を扱った説があり、やはり広く知られている。教会に赴いて他の教徒と一緒に説教を聞いたり、歌うことによって信仰を実践していたカトリックに対して、プロテスタントは当初、個々人が聖書を読むことを重視した。集団で行う儀式に比べて読書は個人中心の行動であるため、一部の論者はこれを近代社会に特有な個人主義と結び付けて考える。
諸教派
ルター派(ルーテル派) 北欧ルーテル派 アメリカルーテル派 () 改革派 ツヴィングリ派 再洗礼派 (アナバプテスト) アーミッシュ(アマン派) ブラザレン教会() フッター派(フッタライト) () メノナイト派() 会衆派教会 アフリカ独立教会() (AICs) バプテスト派 ジェネラル・バプテスト(General) パティキュラー・バプテスト(Particular) 米国バプテスト同盟(旧称 北部バプテスト同盟)() 南部バプテスト連盟() カルヴァン派() オランダ改革派教会() 長老派教会()
*聖公会は本来プロテスタントとは自称しないが、西方教会における諸教派の一つとして挙げておく。 英国国教会・聖公会* 米国聖公会 メソジスト 救世軍 ウェズレー派() メソジスト・プロテスタント() アフリカ・メソジスト() ユナイテッド・メソジスト() メソジスト・エピスコパル() () () () ホーリネス教会() ペンテコステ派() ()
メシアニック・ジュダイズム セブンスデー・アドベンチスト教会() クエーカー(別名 — aka Quakers) 無教会主義
関連項目
ウィックリフ フス派 日本基督教団