ローマ教皇
ローマ教皇(ローマきょうこう)はキリスト教の一大教派であるローマ・カトリック教会(この場合、教会と名は付くがいわゆる教派を意味する)の最高位聖職者であり、政治的にはバチカン市国の元首である。ローマ法王は、この別称である。 (脚注参照)
ローマ教皇(ローマ法王)と呼ばれているが、カトリック教会の典礼の中での呼ばれ方は、単に教皇である。敬称として、聖下またはパパ(Papa)などがある。これらの名称のほかに「西欧の総大司教」「イタリアの大司教」「ローマ司教」「キリストの代理者」「使徒の頭の後継者」「全カトリック教会の首長」などの称号で呼ばれることもある。
現在のローマ教皇は、ヨハネ・パウロ2世。
歴史
ローマ帝国によるキリスト教迫害の時代、使徒ペトロと使徒パウロはローマのバチカンの丘で殉教した。そのため、ローマ教会は古くから歴史的に尊重されていきた。 かつて、北アフリカ地域(エジプト、リビア)の教会で首位にあったアレクサンドリア(コプト)教会の総大司教と、ラテン系地域の教会で首位にあったローマ教会の総大司教が教皇と呼ばれていた。実質上教義の決定権は、これら2つの総大司教にあったからである。しかし、コンスタンティヌス帝が、首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に移した後は、教会行政の中心が帝国の東側に移行する。そして、五本山と呼ばれる五つの教会の時代には、東ローマ帝国(ビザンティン帝国・ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノポリス教会の総大司教(総主教)が「世界総大司教」として二番目の首位を占めるようになり、東方ではこれら五つの教会の大司教をそれぞれ教皇と呼ぶようになった(脚注参照) 。首都の移行後まもなく西方のラテン系地域の西ローマ帝国が滅んだ後、西方のローマ教会は、6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世がイタリアを再びローマ帝国領にしたため東ローマ帝国の皇帝の支配・庇護下に置かれていたが、徐々に東ローマ皇帝やコンスタンティノポリスの教会と教義や文化、教会の主導権をめぐって対立するようになる。
6世紀末、時のローマ教皇グレゴリウス1世は、ゲルマン人の間に盛んに布教を行い、西欧各地の教会を支配下に治めて、勢力を拡大したので、ローマ教会は東ローマ皇帝に対して独立の地位を獲得していった。このため西方の教会では、ローマ教会の総大司教のみを教皇と呼ぶようになる。特にカルケドン公会議以降、新約聖書のマタイによる福音書第16章に、イエスが12使徒のうち最初の弟子であるペトロに、「あなたはペトロ(Πετρος)。わたしはこの岩(πετρα)の上にわたしの教会を建てる。」(『新共同訳聖書』日本聖書協会より引用)の言葉が、ローマ総大司教をペトロの後継者として権威が高めるために強調された。
一方、統一ローマ帝国の後継者を自任する東ローマ帝国はアレクサンドリアを首位とする北アフリカ地域、アンティオキアを首位とするシリア地域、そしてローマを首位とするラテン系地域の教会の分離を阻止するのに苦心した。北アフリカやシリア地域の教会は単性論問題のとき、分裂が決定的となる。しかし、別のギリシャ系の司教を即位させることで、この問題を克服しようとした。
そして、ラテン系のローマ教会とは6世紀頃の三章問題や7世紀の単意論、8世紀の聖像破壊問題、9世紀のフィリオクェ問題とそれによる「フォティオスの分離」などで慢性的な不和が相次ぎ、1054年に、ローマとコンスタンティノポリスの両司教座が相互破門するに至った。ただし、これは司教座間の相互破門に過ぎず、東西教会の破門ではないというのが、両教会の一般的理解である。東西分裂が決定的にしたのは、1204年の第4回十字軍がコンスタンティノポリスを攻撃、陥落させたことや、東西合同会議フィレンツェ公会議の後にローマが約束した軍事的支援を怠ったことによってオスマン帝国にコンスタンティノポリスを攻め落とされた(1453年)こと、保守的なロシア正教会が東西和解に反対することなどが考えられる。なお相互破門状態においても教皇使節のコンスタンティノポリスへの派遣・コンスタンティノポリス総主教座からの大使派遣は行われており、和解のための交渉は継続的にもたれて来た。なお相互破門は二十世紀半ばに解消されている。
ちなみに、ローマ教会の司教座は、コンスタンティヌス大帝が進呈したとされるラテラノ大聖堂である。また、教皇庁はペトロが殉教し墓があったバチカンにあり、墓の上にはこれもコンスタンティヌス大帝が進呈したとされるサン=ピエトロ大聖堂(聖ペテロ大聖堂)が建てられている。
選出方法
ローマ教皇は、教皇選挙権を持つ枢機卿の投票により、ローマ=カトリック教会の男性信徒(主に、枢機卿、大司教、主要教会の司教)の中から選出される。現行の教会法では、枢機卿の中からが義務になっている。教皇の退任と共に、枢機卿はバチカン市国に招集され、秘密会議における議論の後、最終的には投票総数の3分の2を1票超える数以上の支持を得た候補者が教皇となる。(コンクラーヴェ)
関連項目
ローマ教皇の一覧 コンスタンティノープル総主教庁
脚注
ローマ法王とローマ教皇
法王または教皇という呼称は、ギリシア語の pappas、ラテン語の papa (または同様の西洋語)の対応語であるが、後二者は元来いずれも「父」を指す単語に過ぎない。古代においては、ローマ総大司教(総主教)およびアレクサンドリア総大司教のみにこの敬称に使用されており、現在でもコプト教会・東方正教会ではアレクサンドリア総大司教に教皇またはパパの称号を用いる。日本のカトリック司教団では、長年混用されてきた前二者の呼称を、 1982年2月のヨハネ・パウロ2世の来日を機に「ローマ教皇」に統一することにし、これを一般にも促している(外部リンク参照)。一方で、「法王」の呼称の方が商業紙で頻繁に用いられるため、信者以外には馴染みがある、また、「きょうこう」とも「きょうおう」とも読める訳語が適切とも思えない、などといった反対意見もある。
日本のカトリック教会の見解については、以下リンク参照。 「ローマ法王」と「ローマ教皇」、どちらが正しい? カトリック中央協議会