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地動説

地動説とは、地球が動いている、という学説のこと。ニコラウス・コペルニクスが唱えた。天動説に対義する学説である。太陽中心説ともいうが、地球が動いているかどうかと太陽が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。

概要

古くアリストテレスの時代から16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという天動説が信じられてきた。もちろん、コペルニクス以前にも地球が動いていると考えた者はいた。有名なところではフィロラオスで、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えた。アリスタルコスは、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという、コペルニクスに近い説を唱えた。プラトンも善のイデアである太陽宇宙の中心にあると考えていた。広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入るが、これらのどれでもなく、コペルニクスが地動説(太陽中心説)の創始者とされるのには理由がある。

まず第1には、彼らが明確な軌道計算をしなかったこと、つまり、その説に従って未来や過去の惑星の位置を正確に予言できなかったことがある。第2に、地球が動くのなら、鳥や雲が何故取り残されないのか、誰も地球を押していないのに、どうして止まらずに動き続けられるのか、というような多くの疑問に答えることができなかったことがある。考えるだけならば誰でもできるが、地球が動いているという明確な証拠を見つけ、他者を説得できない限り、現在の科学体系の上では説を立てたとはなかなか認められない。思いつくだけでよいのならば、誰でも思いつけるのである。

こうした理由で16世紀に至るまでずっと、2世紀プトレマイオスが体系化した天動説が支持されてきた。プトレマイオスの体系ならば、多少の誤差はあっても惑星の動きを計算することができたし、地球は止まっているのだから、鳥が取り残されることも考えずに済んだのである。もちろん、天動説は当時からおかしなところはかなり多く含んでいた。例えば、惑星の明るさの変化を説明することができない。しかし、さらにそれらの説明までし尽くした新説はなかなか現れなかった。

天動説の体系にさまざまなほころびは出つつあったが、なかなか破綻は訪れてこなかった。それが明確化するのは、大航海時代である。この時代、航海術が大きく変わった。それまでの航海は沿岸航海であった。つまり、陸地の見える場所しか船を運航しないのである。何も目印のない大海原では、行き先が分からず、航海もできなかった。しかし、懐中時計と羅針盤がそれを可能にした。時計磁石と正確な星図があれば、遠洋でも自分の位置を正確に把握することができるようになったのである。しかし、当時の星図には問題がかなりあった。特に惑星の位置は数°単位での誤差が常にあった。

さらにもう1つの問題が生じつつあった。1年の長さが、当時使用されていたユリウス暦の1年よりわずかに短かったのである。この結果、暦の上の季節と実際の季節に約10日のずれが生じていた。キリスト教では春分の日がほとんどの祭日の基準日になっており、10日もずれているのは問題があった。この問題はロジャー・ベーコンによって提起されていたが、1年の正確な長さが分からず300年間放置されていた。というのも、プトレマイオスの説では、1年という単位は宇宙の動きの中には存在していなかったのである。太陽は1日かけて地球の周りを公転する。太陽の軌道が変化することにより季節が生じる。プトレマイオスの説明はこうだった。これではこの体系の上で、季節に基づく1年の長さを決定することができない。

カトリックの司祭であったコペルニクスにとって、正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった。主にそれは宗教的な理由からであった。コペルニクスは地動説を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたとも言われる。コペルニクスアリスタルコスの説を参考にして太陽を中心におき、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1年の長さを365.2425日と算出した。1543年、その測定方法や計算方法をすべて記した著書『天体の回転について』を刊行した。誰でも同じ方法で1年の長さを測定しなおせるようにしたことが、コペルニクスを地動説の創始者とする理由である。コペルニクスの算出した1年の長さは、のちのローマ教皇グレゴリオ13世が1582年グレゴリオ暦を作成するときにも参考にされた。

コペルニクス後の地動説

コペルニクスの後、地動説に同意する天文学者はなかなか現れなかった。しかし、当時の学者がより古いものを正しいものと考え、新しいものを排除しようとした、というのは若干史実とは異なる。支持者が多く現れなかったのには明確な理由があった。コペルニクスの著書では、天体軌道は完全な円軌道であるべきだとしていたので、1年の長さは算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかったからである。残念ながら、コペルニクスは細かい計算ができるような多くの観測をしなかった。著書には、観測データも提示されていなかった。コペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』が作られたが、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、誤差はプトレマイオス説とたいして変わらなかった。惑星の位置計算にはそれ以降も天動説に基づいて作られたアルフォンソ星表が使われ続けた。

最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子を除けばヨハネス・ケプラーだった。1597年ケプラーは独自の正多面体仮説を唱え、惑星軌道が楕円軌道である事を発見し、コペルニクスを擁護した。一方、ティコ・ブラーエは、恒星の年周視差が当時の望遠鏡では観測できなかったことから地球は止まっているものとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを公転するという折衷案を唱えた。これらに追随する形で、ガリレオ・ガリレイもまた地動説を唱えた。当時、コペルニクス説の発表から50年以上経っていたが、はっきりと地動説に賛同した天文学者は、結局、ケプラーガリレイの2名のみであった。

ガリレオ裁判

ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。代表的なものは木星衛星で、この発見はもし地球が動くなら、は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を無効にするものだった。また、ガリレオは金星の満ち欠けも観測。これは、地球金星の距離が変化していることを示すものだった。またガリレオは太陽黒点も観測。太陽もまた自転していることを示した。ガリレオはこれらを論文で発表した。これらはすべて、地動説に有利な証拠となった。ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが、後に潮の干満は月の引力によるものだとして、否定された。

ローマ教皇庁は1616年に、コペルニクス説を禁ずる布告を出した。地動説を唱えたガリレイは、1616年1633年の2度、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられた。

• この裁判の詳細は、ガリレオ・ガリレイの項目を参照のこと。

ガリレオ裁判以降

たとえガリレオが異端の判決を受けたとしても、当時のローマ教皇にはイタリアの外での権力は事実上なかった。ヨハネス・ケプラーは、神聖ローマ帝国皇室付数学官(宮廷付占星術師)でありながら、平然と地動説を唱え続け、著書がローマ教皇庁から禁書に指定されても、それを理由に迫害を受けることはなかった。コペルニクスの説はその主張に反して周転円を含む不完全なものであったので、ケプラーは観測記録などからこれを楕円軌道に修正した。さらに『ルドルフ星表』を作り、1627年、公刊した。それ以前の星表の30倍の精度を持つルドルフ星表は急速に普及し、教皇庁が何と言おうと、惑星の位置は地動説を基にしなければ計算できない時代が始まりつつあった。

しかし、ケプラーもガリレオも、まだ、鳥が何故取り残されないのか、地球が何故止まらないで動き続けているのか、という疑問には正確な答えが出せないままでいた。これを完成させるのは、アイザック・ニュートンの登場を待つ必要があった。ニュートンが慣性を定式化することにより、地動説はすべての疑問に答え、かつ、惑星の位置の計算によってもその正しさを証明できる学説となったのである。

地動説と宗教

地動説の解説の際、必ずといっていいほど、地動説がキリスト教の宗教家によって迫害された、という主張がされるが、これには異議をとなえる意見もある。このため、両論を併記する。

迫害されたとされる理由

コペルニクスは、迫害を恐れ、説の完成後も30年に渡って発表をためらった。発表も死の直前であった。 • 『天体の回転について』は、迫害を恐れる印刷業者によって、「純粋に数学的な仮定である」という但し書きが著者に無断でつけられて刊行された。 • 発表後も、地動説に賛同する天文学者は出なかった。明らかに正しいはずの地動説に対して天文学者たちがこのような行動をとったのは、迫害を恐れたためである。 • マルティン・ルターは、コペルニクス説について、「この馬鹿者は天地をひっくり返そうとしている」と述べ、地動説を迫害した。 • 地動説を唱えたジョルダノ・ブルーノは、1600年に火炙りになった。 • ガリレオは地動説を唱えたために迫害された。 • 1616年ローマ教皇庁は地動説を禁じた。 • 『天体の回転について』は、ローマ教皇庁から禁書にされた(後述するがこれは誤り)。

反論

これに対し、地動説への迫害と思えるものは、単にガリレオイタリア内での権力闘争に巻き込まれたためで、ガリレオを迫害するために地動説が理由に使われただけだという主張もされる。この理論の根拠は次のとおり。

コペルニクスが自説の発表をためらったのは、万一、誤りであった場合、自分やカトリック教会の名誉や権威が失墜するのを恐れたためである。 • コペルニクスの地動説は、写本の形で1514年ごろから流布しており、もしそれを迫害・禁止するのなら、刊行以前になるはず(刊行が禁止されるはず)である。 • コペルニクスは、死期が近づく前に、自説の解説本をプロテスタントであった弟子のレティクスの名で刊行しているが、両者ともに迫害を受けていない。 • 『天体の回転について』には、ローマ教皇への献辞がある。当時、献辞を書くには相手の許可が必要だったはずであり、このことからも当時カトリック教会が地動説を迫害しなかったのは明らかである。 • グレゴリオ暦への改暦に際して、ローマ教皇グレゴリオ13世が直々に設置した改暦委員会は、改暦に必要な1年の長さの算出に、コペルニクスの『天体の回転について』の数値も使用した。(もちろん、他の学者の数値も使用した) • プロテスタントであったマルティン・ルターが批判したのは、カトリック教会そのものである。ルターが地動説を批判した理由は、単に、地動説を唱えたコペルニクスカトリック教会の司祭だったからである。 • 『天体の回転について』(1543年公刊)の印刷担当者はプロテスタントである。プロテスタントは前述のルターの例で分かるとおり、地動説には当初から批判的であった。これが、影響して無断で前文が書き足されたと考えられる。 • 地動説にすぐに賛同する天文学者があまり出なかったのは、コペルニクスの値の精度が悪く、天動説で計算したときと比べ、惑星の位置があまり正確に算出できなかったためである。その証拠に、ケプラーがもっと精度のよい『ルドルフ星表』を出すと、瞬く間に全ヨーロッパの天文学者がこれを使いはじめた。 • ジョルダノ・ブルーノが火炙りになったのは、太陽が中心だと言ったからではなく、他にも激しくカトリック教会を批判したためである。また、ブルーノは天文学を教えた形跡はあるが、天文学者ではない。(天体計算などを行っていない)ブルーノの説の中の天文学に関する部分で、教会を最も怒らせた部分は、太陽は、その他の恒星と同じ種類の星で、特別な星ではない、と述べた部分である。もちろん、ブルーノのこの説は正しいし、当時同じように考えていた天文学者もいたと考えられているが、そう主張する者は当時はまだいなかった。 • ガリレオ裁判は、地動説を裁いたものではなく、当時、出世しはじめていたガリレオの出世の道を閉ざすために、政敵がしくんだ罠であり、地動説はそのための理由に使われただけである。その証拠に、地動説を唱えて異端とされた人物は、ガリレオ以後、誰もいない。また、ガリレオ以前にもいない。(ブルーノの有罪容疑にははっきり地動説とは書いてない)この時代、ローマ教皇庁が地動説を禁じたのは事実であるが、これはガリレオを有罪にするために、先に理由をつける必要があったためである。 • 『天体の回転について』が、ローマ教皇庁異端審問所から禁書に指定されたという事実はない。この書は、1616年、ガリレオ裁判の始まる直前に、閲覧一時禁止の措置がとられただけで、数年後には「純粋に数学的な仮定である」という但し書きをつけて閲覧が再許可されている。一般的に考えて、ローマ教皇への献辞がある書物を数十年後にローマ教皇庁が禁書にすることはありえない。ただし、地動説を元にした本が数冊禁書になったのは事実である。この中にはケプラーの『コペルニクス天文学概要』が含まれるが、コペルニクスの著書はない。

地動説が批判された理由と考えられているもの

聖書には、神のおかげで大地が動かなくなったと記述されており、キリスト教の聖職者は、大地が動くことが可能だと主張するのはの偉大さを証明できるので、問題がないが、大地が動いていると主張するのは、の偉大さを否定することになると考えたとされる。 1539年マルティン・ルターが、最初に宗教的な問題として地動説を批判した。ルター聖書ヨシュア記でのイスラエル人とアモリ人が戦ったときに神が太陽の動きを止めたという奇跡の記述と矛盾すると指摘した。 ガリレオ裁判の最高責任者だったベラルミーノ枢機卿は、大地の可動性を立証できると信じるが、大地の運動を証明できるかは疑問に思うと述べた。 アリストテレスの流れをくむスコラ哲学の学者は天動説を唱えたアリストテレスの理論が否定されるのを問題視したとされる。 教会ガリレオの書いた『天体対話』の中で地動説を唱える貴族に言い負されるアリストテレス派の学者はローマ教皇の事だと思ったからとされる。 カトリック教会太陽教皇の象徴だと考えていたので、太陽が中心にあるという考えについては問題視しなかったとされる。 教皇庁1620年コペルニクスの『天体の回転について』に対して訂正を求めたときには、宇宙の中心に関する記述より地球の運動に関する記述が問題視されたと言われている。

地動説と日本

徳川吉宗の時代にキリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可したときに、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した。 本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。 医者の麻田剛立1763年ケプラーの楕円軌道の地動説を用いて、世界で初めて日食の日時の予測をした。 幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように高橋至時や間重富らに命じ、1797年に月や太陽の運行に楕円軌道を採用した寛政暦を完成させた。 渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて、天保暦を完成させ、1844年寛政暦から改暦され、明治時代に太陽暦が導入されるまで使われた。

地動説のもたらしたもの

地動説は単なる惑星の軌道計算上の問題のみならず、世の哲学者、科学者らに大きな影響を与えた。地動説の生まれた時代を科学革命の時代とも言うのは、それほどまでに科学全体に与えた、そして、科学が人間の生活に影響を与え始めた時代であることをも反映している。今でも「コペルニクス的転回」などと呼ぶのは、その名残である。




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