冷戦
冷戦(れいせん、冷たい戦争=Cold War)は、第二次世界大戦後の世界を二分した、ソビエト連邦を盟主とする共産主義(社会主義)とアメリカ合衆国を盟主とする資本主義の対立構造。1945年から1991年。直接、武力衝突する戦争を伴わなかったため、直接衝突による「熱い」戦争に対して、「冷たい戦争」と呼ばれた(アメリカの政治評論家ウォルター・リップマンが1947年出版の著書のタイトルに使ったことから一般に流布したとされる)。
東西対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を中心とした共産主義(社会主義)の陣営(共産圏)は、東欧に集まっていたことから東側、対するアメリカ合衆国を中心とした資本主義陣営は西側と呼んで対峙した。対立構造の中で西欧は統合が進んだ。
冷戦の代表的事件 朝鮮戦争 キューバ危機 ベトナム戦争
欧州の対立構造 政治的対立 西側=欧州会議、北欧理事会 東側=主流派社会主義による結束
軍事的対立 西側=北大西洋条約機構(NATO)、西欧連合(WEU)、バルカン軍事同盟 東側=ワルシャワ条約機構(WTO)
経済的対立 西側=対共産圏輸出統制委員会(COCOM)、欧州共同体(EC)、欧州自由貿易協定(EFTA)、欧州通貨協定(EME)、経済協力開発機構(OECD) 東側=東欧経済相互援助条約(COMECON)
この他にも、アジア、中東、南米などで、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、経済的、人的、情報の交流が少なく、「鉄のカーテンが降ろされている」と言われた。
このどちらにも属さない後進国(開発途上国)は、第三世界と呼ばれ、それぞれの陣営の綱引きに遭った。この二つの対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった。
冷戦の展開
起源(1945年-)
冷戦の起源は、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼることができるが、超大国の対立という構図はヤルタ体制に求められる。主に欧州の分割を扱った、1945年2月のアメリカ・ルーズベルト、ソ連・スターリン、イギリス・チャーチルによるヤルタ会談が、戦後の世界の行方を決定した。7月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていった。
1946年、モスクワのアメリカ大使館に勤務していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「封じ込め政策」につながった。
戦争によって大きな損害を蒙っていた西側諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。とくにフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシアおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、全体主義と自由主義の二つの生活様式というマニ教的世界観が顕在化した。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。
東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義にいたる多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。他方、ユーゴスラビアとアルバニアにおける共産党体制の成立において、ソ連の主導というよりも、戦中のパルチザン闘争に見られる土着勢力による内発的要因が大きかった。この点が、1948年のユーゴ・ソ連論争の遠因ともなり、共産圏からユーゴスラビアが追放され、自主管理型社会主義や非同盟主義外交という独自路線を歩むことになった。
枢軸の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4分割して占領統治した。占領行政の方式や賠償問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、1949年、西側占領地域はドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。
ベルリン問題
ドイツは首都ベルリンも国土同様に4国分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に島のように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における通貨改革への対抗措置として、1948年に西ベルリンへつながる鉄道と道路を封鎖した(ベルリン封鎖)。これに対抗する為、西側連合国は物資の空輸作戦を行なって、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。
冷戦のグローバル化(1949年-)
ヤルタ会談によって、日本が支配していた朝鮮は、北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが支配し、それぞれに傀儡政権を作った。米ソ分断によって起きた朝鮮戦争(1950年-1953年)によって、東西冷戦はついに火を吹いた。中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する国民党と中国共産党が内戦を繰り広げたが、共産党が勝利して共産主義の中華人民共和国を建国した。中国は朝鮮戦争に出兵し、アメリカと対立した。すでにモンゴルではソ連の支援の下で共産主義のモンゴル人民共和国が1924年に成立していた。
フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。フランスが敗北したので独立を得たが、共産主義勢力の拡大を恐れたアメリカは北緯17度で南部を分割し、南側に傀儡政権を置いた。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、ラオス、カンボジアでも共産勢力による独立運動が起こった。
極東ではアメリカが、一国占領していた日本、大韓民国、フィリピン、またタイと軍事同盟を結んで西側に引き入れ、共産主義の封じ込めを図った。
1953年、スターリンが死去し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。朝鮮戦争の休戦が合意され、1955年には、オーストリアから連合国軍が撤退し、永世中立が宣言された。またジュネーヴで米ソ英仏の首脳が会談し、「雪解け」ムードを演出した。
この時期から、東西両陣営内部で米ソの支配が緩み始めていった。
東側陣営では、スターリンの後継者争いを勝ち抜いたフルシチョフが1956年の第20回ソ連共産党大会でスターリン批判を行った。この演説の反響は大きく、ソ連の衛星諸国に大きな衝撃をもたらし、東欧各地で反ソ暴動が起きた。ポーランドでは反ソ暴動についで、国民の人気が高かったゴムウカが党第一書記に就き、ソ連型社会主義の是正を行った。ポーランドの動きに触発される形で、ハンガリーでも政権交代が起こり、ナジが政界に復帰したが、国民の改革要求に引きずられる形で、共産党体制の放棄、ワルシャワ条約機構からの脱退、中立化を宣言するに至り、ソ連軍の介入を招いた(ハンガリー動乱)。
主な出来事 スプートニク打ち上げ成功 ミサイル・ギャップ論争 スエズ戦争
危機の時代(1958年-1962年)
互いを常に「仮想敵国」と想定し、お互いの勢力の拡大を競い合い、軍備拡張が続いた。この象徴的な存在が、核兵器開発と宇宙開発の競争である。両陣営はそれぞれ核兵器を所持するようになる。ソ連とアメリカの直接衝突は、核兵器の脅威による牽制で、発生しなかった。その一方、第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で、実際の戦火が上がった。これは、二つの大国の熱い戦争を肩代わりする、代理戦争と呼ばれた。ベルリン危機(1958年-1961年) 1949年以降、分断状況が既成事実化しつつあったドイツ問題が暫定的な形とはいえ、「解決」を見たのが、1958年から始まったベルリン危機であった。当時、東ドイツにおける過酷な社会主義化政策によって、熟練労働者や知識人層における反発が高まり、その多くが西ベルリンを経由して、西ドイツへと逃亡した。社会主義建設の中核となるべき階層の流出に危機感を募らせたウルブリヒトは、ドイツ問題の解決をフルシチョフに訴えるとともに、西側との交渉が挫折した際には、人口流出を物理的に阻止することを選択肢として提起した。フルシチョフの要求に対し、西側陣営は拒否の姿勢を貫いたため、1961年8月、西ベルリンを囲む形で、鉄条網、後に壁が築かれた(ベルリンの壁)。この当時、ベルリン市長を務めていたのが、1969年に首相として東方政策を推進したヴィリー・ブラントであった。彼の東方政策の背景には、ベルリン危機の経験が反映されていた。
主な出来事 中台危機(1958年) U-2撃墜事件(1960年) キューバ危機(1962年)
冷戦の変容(1963年-1968年)
核戦争寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、部分的核実験禁止条約、ホットライン協定などが締結された。軍備拡張が進む中、ソ連もアメリカも財政赤字に苦しみ、消耗していく。
アメリカはアメリカ病と呼ばれる経済不振、モラルの低下、犯罪の増加に悩まされ、財政難による軍事拡張の限界と、ベトナム戦争を契機とする反戦運動、黒人の公民権運動によって国内は混乱、暗殺が横行して社会不安に陥った。
ソ連は中央指令型の計画経済の失敗、軍事費の負担から経済が破綻し、共産圏の箍が緩み始める。アルバニアはワルシャワ条約機構を離れ、中国はアメリカに近づいてソ連と決別した。北朝鮮は主体思想を掲げてソ連から離反した。こうして今にいたる共産主義の多極化が起こった。
主な出来事 ベトナム戦争(1965年-1973年) チェコスロバキアのプラハの春(1968年) 中ソ対立
デタントの時代(1969年-1979年)
1960年代末から緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入。ニクソンが中国を訪問し、アジアにおける冷戦の機軸であった米中関係が改善した。
ヨーロッパでは、1969年に成立した西ドイツのブラント政権が東方政策を進め、東側との関係改善に乗り出した。また1972年に、かねてからソ連が提案していたヨーロッパ全体の安全保障を協議する「ヘルシンキ・プロセス」が始まり、1975年に欧州安全保障協力会議の成立につながった。
一方アフリカでは、アンゴラ、ソマリアなどの内戦に米ソが介入した。
新冷戦(1979年-1985年)
1979年、ソ連がアフガニスタンを侵攻したため、西側世論が反発した。これによって東西は再度緊張し、影響はモスクワオリンピックの西側ボイコットとして現れた。主な出来事 イラン革命(1979年) レーガンによる悪の帝国発言とSDI構想(1983年)
終結過程(1985年-1989年/1991年)
1985年ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは改革(ペレストロイカ)および新思考外交を掲げて、大胆な軍縮提案を行い、西側との関係改善に乗り出す。また東欧諸国に対しても改革を促し、1989年に入ると、ポーランドやハンガリーを皮切りに共産党体制が相次いで倒れ、11月には冷戦の象徴ともいうべきベルリンの壁が崩壊した。12月、地中海のマルタ島でゴルバチョフとブッシュが会談し、冷戦の終結を宣言した。冷戦の要因のひとつであったドイツ問題は、ベルリンの壁が崩れたことを契機として、統一へ向けた動きが加速化した。ソ連は統一ドイツがNATOに属することに難色を示したが、最終的にNATO帰属を認め、1990年に東西ドイツは統一した。
一方、ソ連では、バルト三国などで独立を要求する動きが高まり、ペレストロイカ路線は行き詰まりつつあった。1991年8月、ゴルバチョフの改革に反抗した勢力が軍事クーデターを起こし、ゴルバチョフは滞在先のクリミアで軟禁状態に置かれた。クーデターは、エリツィンの活躍やクーデター勢力の準備不足から失敗に終わった。しかし、その結果バルト三国は独立を達成、各構成共和国でも独立にむけた動きが進み、1991年12月8日に、ロシアのエリツィン、ウクライナのクラフチュク、ベラルーシのシュシケビッチがベラルーシのベロヴェーシで会談し、ソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS)の結成で合意した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして12月31日をもってソ連は解体した。
その後十年間で、東欧・旧ソ連の国々が相次いで親米国家となったことも特筆すべき点である。
冷戦の遺産
ソ連という強大な国家が崩壊すると世界の均衡が崩れ、2000年ごろまでのその後10年間に旧ソ連・中東欧を中心に多くの民族紛争が起こった。1992年にチェコからスロバキアが分離、1993年までにユーゴスラビアが崩壊したが、地域の紛争はその後も続いた。カフカス地方ではチェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した。西洋での冷戦は終結したが、東洋ではモンゴルの民主化、ベトナムとアメリカの国交正常化のほか、中華人民共和国と中華民国(台湾)の対立、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の対立が現在も続いており、こちらは解決の見通しが立っていない。
核開発競争によって生産された高性能核弾頭を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。また冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、ソ連・イギリス・フランス・中国に開発法を伝授し、現在の核五大国が形成されたほか、インド・パキスタンの核保有に及んでいる。
総括
冷戦とは何だったか。最大公約数的な答えは、「資本主義と共産主義の争い、そして前者の勝利」であろう。この両者の争いの過程で、お互いの欠陥が暴露し、両者はその欠陥をどう修正するかについて知恵を絞りあった。資本主義の欠陥とは、貧富差の存在、景気変動・失業、過当競争、独占、人間疎外などであった。西側はその欠陥を修正するために、社会福祉を充実させ、階段式課税、独占禁止法、自己実現などの装置を取り入れ、一定の成功を収めた。
一方東側の欠点は、官僚主義、官僚エリートの出現、完全配給による労働意欲の低下、硬直的な経済運営、体制維持のための自由の抑圧=人間疎外、何よりも平等なはずの共産主義が、実際には貧富の差を生み出してしまったことである。
ゆがんだ共産主義体制を修正するには自由競争を導入するしかないことは理解されていたが、計画経済の下に限定的に自由競争を導入する手法は焼け石に水であり、またその逆は共産主義そのものを崩壊させるものであった。結果的にソ連をはじめとする東側は崩壊してしまった。
もっとも興味深い部分は、共産主義の多くの国が、なぜ経済運営を失敗したかを考えず、共産主義を捨てて自由資本主義に走ったことである。
冷戦史研究
論争史
伝統学派/正統学派 修正主義学派 ポスト修正主義学派 コーポラティズム 新しい冷戦史
研究者
ブルース・カミングス(Bruce Cumings) ジョン・ルイス・ギャディス(John Lewis Gaddis) マイケル・ホーガン(Michael Hogan) ウォルター・ラフィーバー(Walter LaFeber) メルヴィン・レフラー(Melvyn P. Leffler) ゲイル・ルンデスタッド(Geir Lundestad) ヴォイチェフ・マストニー(Vojtech Mastny) トマス・マコーミック(Thomas J. McCormick) マーク・トラクテンバーグ(Marc Trachtenberg) ウィリアム・A・ウィリアムズ(William Appleman Williams) ヴラジスラフ・ズボク(Vladislav M. Zubok)
学術誌
Cold War History, (Frank Cass, 2000-). Diplomatic History, (Society for Historians of American Foreign Relations / Blackwell, 1977-). Journal of Cold War Studies, (Harvard Project on Cold War Studies / MIT Press, 1999-).