備中国
備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陽道に位置する。現在の岡山県の西部にあたる。
沿革
7世紀後半に、吉備国を備前国、備中国、備後国に三分して設けられた。はじめのうち、吉備道に属する一国とされたらしく、吉備道中国(きびのみちのなかつくに)と書いた木簡が見つかっている。また平安時代の『和名類聚抄』でも、備中国の和訓を「きびのみちのなかつくに」としている。
国府・国分寺・総社・一の宮
国府は賀夜郡にあった。現在の総社市と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。
国分寺と国分尼寺は、現在の総社市上林にあり、遺跡が見つかっている。国分寺は中世にいったん廃寺になったあと、江戸時代の宝永7年 (1710年) に元の国分寺のそばに再建された。国分尼寺は現在の総社市上林字皇塚にあり、国分寺より早く廃絶して再建されなかった。
総社は備中総社宮で、総社市総社に現存する。
歴史
古代から開発が進んだ先進地帯で、鉄産地でもあった。造山古墳と作山古墳があることなどから、吉備の最有力豪族の拠点だったと推定される。その後も瀬戸内海に面した交通の要を占め、天智天皇の時代に鬼ノ城が築かれた。律令制では上国とされた。
平安時代末には妹尾兼康という武士がいて、十二カ郷用水を開いて村々を潤した。兼康は中央の政治では平氏に忠実な家人として活躍し、最後は備中国板倉で源義仲に敗れて死んだ。
室町時代に備中国は細川氏を守護とした。細川氏の本拠というべき四国や、当主が詰めていた京からは、備中国は飛び地にあたり、在地の国人の独立性が強かった。しかし一国を統一する勢力は出ず、戦国時代にはまず尼子氏、後に毛利氏に属した。さらに織田信長が進出してくると、備中国高松城が織田・毛利両軍の対峙の場になった。織田信長の死による講和で、毛利輝元は備中の三郡を譲り、残りを保持することになった。
江戸時代の備中国は、数多い知行地に分割領有された。元和3年 (1617年)まで、幕府は備中国奉行を派遣して広域統治にあたらせた。備中国の小藩には、備中松山藩(池田氏、水谷氏を経て板倉氏)、成羽藩(山崎氏)、岡田藩(伊東氏)、足守藩(木下氏)、庭瀬藩(戸川氏、後に板倉氏)、浅尾藩(蒔田氏)があった。以上は断絶や転封で様々に変遷した。現在の高梁市にある松山城が備中国唯一の城で、残りは陣屋を構えた。松山城下は備中国では最大の人口を抱えた。
倉敷は、城下町ではなかったが、江戸時代を通じて発展し、松山と肩を並べ、やがてこれを凌駕するようになった。現在の倉敷市にある玉島は、瀬戸内海の流通と結びついた海港として栄えた。備中では綿作が広まり、江戸時代後期になるとその加工も盛んになった。また、製鉄もなお重要であり続けた。
明治4年 (1871年) 7月14日の廃藩置県の直後、備中国には10の県があった。同年中に備後国の6郡とあわせて深津県となった。深津県は明治5年 (1872年) に小田県と改称し、明治8年 (1875年) に岡山県に合併した。
幕府調査による人口は、文政5年 (1822年) が33万7155人であった。明治政府の明治5年 (1872年) の調査による人口は、39万6880人であった。
関連項目
令制国一覧 備州