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御木本幸吉

御木本幸吉(みきもと こうきち、安政5年1月25日1858年3月10日) - 昭和29年(1954年)9月21日)は真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。真珠王と呼ばれる。

誕生

志摩国鳥羽浦の大里町で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、明治14年(1881年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け、賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。大伝馬船を10艘も持ち、石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか薪、炭、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられる。幸吉が晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐している。明治維新によって職を失った失業士族の栗原勇蔵岩佐孝四郎らに読み書きソロバン、読書などを習ったが正規の教育は受けていない。

商才と向上心と社交性

早くから一杯8厘のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。大きな目標を掲げる事で、自分自身に課題を与え、自らを鼓舞するところがあった、時として大法螺吹きといわれた。足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、英国の軍艦シルバー号へ青果や卵を売り込むのに成功した。また、マスコミを利用する点では今で言うヤラセにあたるような事も考え出し実行するような勇み足もあったようだ。

真珠に到る助走路

明治9年(1876年)の地租改正で、納税が米納から金納に変わったのを機会に、が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換、
明治11年(1878年)には20歳で家督を相続、御木本幸吉と改名する。同年3月東京、横浜への旅により、天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、海産物商人へと再転身した。海産物商人としての幸吉は自らアワビナマコ、伊勢海老、牡蠣天草サザエ泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力した。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員、などを務め地元の名士になっていた。

時代の転換期に

幸吉の飛躍の始まりは、明治維新という時代背景がきっかけである。職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり、富国強兵のスローガンの下で海国日本の殖産興業政策により明治15年(1882年)大日本水産会が創設された。明治14年(1881年)(幸吉23歳)結婚。妻、うめ(17歳)は鳥羽藩士族久米盛蔵の娘で新しい学制の小学校とその高等科をでた才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられなかった。明治15年(1883年)父、音吉死去(54歳)。

アコヤ貝の養殖

世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており、海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入が得られる事から、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して、明治21年(1888年6月(幸吉30歳) 第2回全国水産品評会の為上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦(やなぎ・ならよし)(1832年-1891年)を訪ね指導を仰いだ。なお、柳楢悦氏は三重県津市出身で長崎伝習所を卒業し、初代の海軍水路部長をした人物である。幸吉は同年9月11日貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く、経費倒れに終わった。この為発想を転換し、《真珠の養殖》を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。この目的の為に、柳楢悦の紹介で東京帝国大学箕作佳吉(みつくり・かきち)博士(1857年-1909年)と当時大学院生だった岸上謙吉博士を明治23年(1890年)訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。

外国での養殖例はあった
中国の仏像真珠(胡州珍珠)にみられるように、古来、真珠を産する貝の中に鉛などの異物を入れ、人工的に貝付き真珠を作り出す試みは、中国や欧州各地で行われていた。しかし、幸吉の情熱と周囲の協力体制という点での取り組みが結果的に勝っていた事になる。

養殖実験開始

明治23年(1890年)(32歳)神明浦と相島(おじま、現在の真珠島)の二箇所で実験を開始した。この時小川多門猪野三平等が協力した。問題は山積しており、アコヤ貝についての問題、どんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策、等々である。その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝には大変な苦労が伝えられている。
明治24年(1891年)農商務省技手山本由方による厳島(広島県)での真珠養殖実験を直接見聞。この時のアコヤ貝は英虞湾から幸吉らが移送に協力した。
明治25年(1892年)7月、東京帝大の佐々木忠次博士の貝の生存環境・養成上多くの示唆を得た。

特許と身近な縁者の協力

明治26年(1893年)7月11日(35歳)、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。
明治29年(1896年)1月27日(38歳)、半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知された第一歩となった。同年4月(幸吉38歳)、妻うめ死亡(32歳)。開拓者として当然の事ながら周囲は、途方も無い事と感じ、直接的に幸吉の作業を手伝う者は身近な親族だけであったが、 特許取得をきっかけにまず、親族が積極的に関わった。妻の実兄久米楠太郎、幸吉の実弟(二男)御木本松助夫妻、幸吉の実弟(三男)森井常蔵夫妻、須藤卯吉、明治30年(1897年)秋には幸吉の実弟(五男)斎藤信吉、明治32年(1899年)には竹内久吉、(猪野三平の子息)猪野若造藤田嘉助大谷幸助らが従業員として田徳島に移住、「海のものとも山のものともわからぬ事業に一身をかける人間は身内以外にはいなかった」と幸吉の四女乙竹あいが後に語っている。その他桑原乙吉、次女みねの夫西川藤吉見瀬辰平藤田輔世藤田昌世らが加わる。西川藤吉(1874年 - 1909年)は東京帝大動物学科卒、農商務省に在籍し、箕作佳吉博士の下で真円真珠の科学的研究を行っていた。しかし、明治42年(1909年)6月惜しくも35歳の若さで不帰の人となった。

その後の特許をたどると、1.半円真珠から真円真珠に到る特許。2.特に半円真珠に関わる加工上の特許(容飾真珠)。3.アコヤ貝養殖方法に関する特許(養殖籠・海底いけ籠)。4.大正13年(1924年)(42歳)、母貝が子貝を生み育てる為の《仔蟲(しちゅう)被着器》の特許、この発明によって、アコヤ貝の全滅を救う当初の目的が達成されるようになった。

銀座に出店

明治31年(1899年)(40歳)、東京銀座に御木本真珠店を開設する。

真円真珠

明治41年(1908年)(50歳)、真円真珠の特許権を取得。

人々の協力

明治29年4月妻うめの死亡は痛手であったが、天性の社交性と熱意により、多数の人々が幸吉を応援している。養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の小川小太郎(1865年-1889年)であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち、実験もしていたが、24歳の若さで死亡した。
志摩国答志郡の郡長であった河原田俊蔵は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳楢悦に紹介状を書いてくれた。 親友の四日市万古焼商人だった川村又助は、アコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。藤田四郎(1861年-1934年)は同郷で藩校尚志館の句讀師(漢学者)龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち事務次官、日本火災社長、台湾精糖社長)、宮内省御用達となる際の保証人になった。他にも、愛知県出身の農商務省局長織田一(1865年-1914年)、埼玉県深谷出身の財界の重鎮渋沢栄一(1840年-1931年)は幸吉の渡米にあたって発明王エジソンらに紹介状を書いた。土佐出身の森村市左衛門(1840年-1919年)は明治8年(1875年)森村組を創設し日米貿易協会長、日本銀行監事などを勤め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。

量産体制

大正7年(1918年)、様々な技術的実証の実験の中から、良質な真珠が大量に得られるようになった。翌年にはロンドンの宝石市場にも供給できるようになったが、大正10年(1921年)ヨーロッパの宝石商は天然真珠と見分けのつかない養殖真珠をニセモノ、つまり詐欺であると断定する騒ぎから訴訟に発展し、御木本側ではイギリスではオックスフォード大学のリスター・ジェームソン博士、フランスではボルドー大学のH.L.ブータン博士などの権威者を証人として正論を述べる等して対抗。イギリスの宝石商は訴訟を取り下げたが、フランスは粘り強く拒否を続けた。昭和2年(1927年)、フランスの裁判所から、天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界で認める宝石となった。生産地も次第に英虞湾を中心とする伊勢地方だけでなく、全国的に広げていった。

大往生

昭和29年(1954年)9月21日、御木本幸吉は96歳で亡くなった。老衰による大往生と言ってよいだろう。持病は胆石があったようで、看病の為に、住み込みで身の回りの世話をした女医の話によると、真珠王と言われる方が、あまりにも質素な食事をしておられた事に驚いたし、待遇もしかりという次第であったようである。当時は朝鮮戦争が終わって景気は悪くなかったが、まだ米穀通帳やら外食券食堂があり、旅行には米を持参する時代であった。

幸吉の心痛と長寿の賜物

御木本幸吉は単に、真珠の養殖と真珠貝の養殖に成功しただけでなく、真珠を宝石市場の中心に位置させる為のあらゆる努力を惜しまなかった。なお、幸吉の一人息子隆三(1893年-1937年)は、一高時代に英国の思想家ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819年-1900年)の著作に出会い、オックスフォード大学留学でラスキンの研究に情熱を注ぎ、銀座に開設したラスキン文庫内の喫茶室ラスキンルームのメニューに《ラスキンサンドウィッチ》と記す程の思い入れが強かった。更に銀座一丁目に「ラスキンカテッジ」、渋谷道玄坂に「ラスキンガーデン」、銀座五丁目に「ラスキンホール」等と次々と開設、その後、昭和12年(1937年)破産、禁治産者申請へと至るが、隆三の人生を辿るだけでも、壮絶なドラマである。幸吉の心痛の思い、いかばかりかの感であるが、結果的に、幸吉が96歳まで長寿を保ったという事実が、長男の事件と第二次世界大戦の二つの大事件を克服し、ブランドを他家に取られず、本家を世界周知のミキモトとして、飛躍に至らしめたといえよう。

参考文献

ミキモト編『御木本真珠発明100年史』 株式会社ミキモト 平成6年1994年7月出版(共同刊行者 株式会社御木本真珠島、御木本製薬株式会社、株式会社御木本装身具)



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