康熙帝
康熙帝(こうきてい、1654年 - 1722年 在位1662年 - 1722年)は清の四代目皇帝。諱は玄燁(げんよう)燁の字は火ヘンに華)、廟号は聖祖。日本では在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。
即位まで
順治帝の第三子として生まれ、八歳で即位する。当初は重臣四人による合議制だったが、重臣たちは互いに争いあい、康熙帝15歳の時に重臣を排除して親政を始めた。
内乱
1673年(康熙十二年)三藩の乱が起こる。順治帝に山海関を明け渡して投降した呉三桂は、その後に南に逃れた明の永暦帝を殺した事で清から功績大と認められ、皇族で無いにも拘らず親王に立てられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜、耿精忠の三人の藩王はそれぞれ雲南、広東、福建を領地としており、領内の管理任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体を為していた。康熙帝はこの三藩を廃止する事を決める。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、三名だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱する事と同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか。」と言う意見を出し、康熙帝はこれを採用した。
予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、台湾の鄭経(鄭成功の息子)も呼応し、一時期は長江以南を全て奪われるなど創業間近の帝国崩壊の危機を迎えた。群臣は康熙帝に満州に避難する事を勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。呉三桂たちは「満州族を追い出して漢族の天下を取り戻そう」と言うスローガンを持って民衆に呼びかけていたのだが、そもそも漢族の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂だったので民衆は三藩を支持しなかった。清軍は徐々に優勢になっていき、1681年(康熙二十年)に三藩の乱を鎮圧した。その二年後には台湾を制圧し、完全に中国を統一した。
外征
台湾を制圧した年、ロシア帝国が満州族の故地である黒竜江付近に南下してきたのでこの地方の軍事力を強化し、1689年にネルチンスク条約を結んだ。これまで中華思想により中国は唯一の国家であり、国境と言うものは存在しないと言う建前だったが、この条約で初めて国境を定めた。これには側近にいたイエズス会宣教師の助言があったと言われる。翌年、モンゴルのジュンガル部が清に服属していたハルハ部に侵攻したので康熙帝は親征し撃退した。1717年(康熙五十六年)、今度はジュンガルがチベットに侵攻したので再度親征する。この遠征は失敗に終わったが、二年後に再度親征しジュンガル部を滅ぼし、漠南を勢力下に入れた。この時の版図が大体現在の中華人民共和国の国境線となっている。
国内政策
内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明代に一日で使った費用で一年間の宮廷費用としたと言われる。また使用人の数を一万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、一方では減税を度々行って、財政は富み、人口は急増した。文化的にも『康熙字典』、『大清会典』、『歴代題画』、『全唐詩』などを編纂させ、また朱子学に傾倒し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて血を吐くまで読書を止めなかったと言われている。康熙帝の時から十哲の一人として朱子を祀るようになり、『朱子全書』、『性理大全』などの朱子に関する著作をまとめる。明史の編纂にも力を入れて大部分を完成させる。
このように善政面が目立つ康熙帝だが、一方では文人統制を行い、何人かの「清を侮辱する文章を書いた」と疑われた文人を殺している。康熙帝自身が優れた文人であったために文章の力というものを高く評価して恐れていたのだろう。
康熙帝は次男の胤礽(示乃)を皇太子に立てていたが胤礽は奇矯な人物で康熙帝はこれを廃し、死ぬ直前まで後継を定めなかった。これ以降、このやり方が定着し、皇帝があらかじめ隠しておく勅書を死後に開いて、後継を決めるようになった。これを密勅立太子法(太子密建)と言う。今までは皇太子の周りに次代の権力の座を狙って集まって来る者が追従を繰り返す事によって皇太子の性格がゆがむ事が多かったのだが、密勅立太子法は結果的にそのような者を封じる事が出来た。
順治帝が清を中華王朝としたが、実質的に清を全国王朝としたのは康熙帝である。清代のみならず、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。
康熙帝の生涯の映像化
康熙帝の生涯を描いたものとして、テレビドラマ『康煕王朝』が知られる。| 先代: 順治帝 | 清 | 次代: 雍正帝 |