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大石内蔵助

大石 内蔵助おおいし くらのすけ、万治2年(1659年) - 元禄16年2月3日1703年3月19日))は、江戸時代武士播磨国赤穂藩国家老。諱は良雄(よしたか)で、内蔵助は通称。

幼名・・・・・・喜内(きない)
戒名・・・・・・忠誠院刃空浄剱居士
雅号・・・・・・可笑(かしょう)
御父・・・・・・大石権内良昭
御母・・・・・・池田由成(備前岡山池田家家老)の娘・くま
妻  ・・・・・・石束源五兵衛毎公(豊岡京極家家老)の娘・理玖
変名・・・・・・池田右衛門 垣見五郎兵衛

家譜

出目は平将門を討った鎮守府藤原秀郷の後裔で、その一族が近江国栗太郡大石庄の下司職(げししき) になったので地名をとって大石氏を名乗るようになったという。
内蔵助良雄の曾祖父にあたる内蔵助良勝(よしかつ)は浅野采女正長重(あさの-うねめのかみ-ながしげ/浅野長政の次男)に仕えて大坂冬の陣で武功を立て、のち家老となって千五百石を領す。良勝は浅野長重の子の長直の代に常陸笠間から播州赤穂へ転封となったのに従い、赤穂に移った。
良勝没後、子の内蔵助良欽(よしかね)が跡を継ぎ、浅野長直・長友・長矩の三代に仕えた。
良欽の長子、権内良昭(ごんない-よしあき)が早逝したため、 孫の良雄が良欽の養子となって家督を継いだ。 良雄の大叔父(良欽の弟)の頼母助良重(たのものすけ-よししげ)が家老となり、良雄の成人まで補佐した。
良雄は19歳で家老見習いとなり、 その2年前にわずか9歳で家を継いだ浅野長矩に仕え、21歳で正式な家老となった。

知行1500石の赤穂浅野家主席家老であったが、1701年に主君の浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷におよんで切腹を命ぜられ、改易となったとき、赤穂城を開城し、赤穂の屋敷を引き払って浪人した。後、赤穂藩浅野家の再興運動を行ったが、果たせなかった。

浅野長矩切腹の際、幕府の裁きが武士の法である喧嘩両成敗によらず、浅野に一方的に非を認めて吉良に処罰が一切与えられないものであったとして、吉良への仇討ちを願う赤穂浪士の指導者となった大石は、1702年末(西暦では1703年初め)、吉良邸討ち入りを指揮して吉良義央を討ち、自首後、幕命により細川越中守綱利に預けられ、切腹した。享年45歳。

辞世は、

あら楽や思いははるる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし
この「あら楽や」の部分は多くの本で「あら楽し」となっている。しかし、「介石記」や「江赤見聞記」、「義人遺草」には「あら楽や」であって「あら楽し」ではない。 「あら楽し」は、『赤穂義士辞典』(新人物往来社)に載っているが、これの出典は「江赤見聞記」とある。とすると、出典である「江赤見聞記」は写本によって二通りの書き方があるのか。 また、上の歌は辞世ではなく泉岳寺に引き上げ、長矩の墓前に吉良の首を手向けたときに詠まれたもので、辞世は次の歌だともいわれる。
極楽の道はひとすぢ君ともに阿弥陀をそへて四十八人

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