小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)に、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。
背景には、前年・天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い時に、信長次男・信雄を擁立して、信長三男・信孝を擁する柴田勝家陣営に勝利した秀吉が、同年暮れ新築した大坂城に信雄を含む諸将を招いたこと、がある。それは、秀吉に対し臣下の礼をとることを意味することで、秀吉の「主家」を自任する織田家の信雄はこれを拒否し、大坂参城の命に従わなかった。これに対し、秀吉は信雄家の家老であった津川義冬ら三人を懐柔し、「三人が秀吉に通じた」という噂を流布する。これに疑心暗鬼となった信雄は三人を処刑、秀吉に信雄家を攻撃する口実を与えてしまう。その信雄が家康に応援を求めたことから、小牧・長久手の戦いが起こったのである。
戦の戦況は、双方、持久戦を展開し、膠着状態が続く。しかし、この膠着状態に業を煮やした、秀吉陣営の池田恒興・森長可・三好秀次(後、豊臣姓)らが野戦に打って出て、恒興・長可両将が討死してしまう。戦況は信雄・家康陣営に有利かに見えたが、秀吉は本領安堵を条件に信雄に講話を申し入れ、保身に汲々とする信雄はこれを受諾する。信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康陣営は同年暮れついに兵を引き、小牧・長久手の戦いは幕を閉じた。これによって、天下の趨勢は更に秀吉政権確立へと進んでいくこととなった。
ただ、この戦いで、秀吉が家康を完全に叩くことができず、却って彼の名を成さしめたことは、秀吉が計画していた、大坂への遷都とそこでの開幕の構想を断念せざるを得なくなる等、秀吉陣営にとっては、相当な痛手となったことが、近年の研究で指摘されている。