北畠親房
北畠親房(きたばたけ ちかふさ、永仁元年1月29日(1293年3月8日) - 正平9年/文和3年5月10日(1354年6月1日))は、南北朝時代の公家である。父は北畠師重、母は藤原隆重女。顕家・顕信らの父。「神皇正統記」の作者。 1293年に生まれる。後伏見院政の頃から検非違使別当を務め、1318年に後醍醐天皇が即位すると、世良親王の養育を託される。吉田定房・万里小路宣房と共に「三房」と呼ばれ、正中の変にはじまる後醍醐の鎌倉幕府倒幕計画には加担をしてはいなかったようである。後醍醐の建武の親政が開始されると、親房は再び政治の舞台へ登場する。奥州鎮定を命じられた息子北畠顕家に随行し、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥多賀城へ赴く。北条氏の残党による中先代の乱が起き討伐に向かった足利尊氏がそのまま建武政権から離反すると、尊氏を討伐するために京へ戻り、吉野で南朝を開いて北朝と対抗する。 息子顕家の戦死後、1338年に親房は関東に南朝勢力を拡大するために義良親王・宗良親王を奉じて伊勢から海路常陸国へ渡ろうとするが、暴風にあい両親王とは離散し単独で常陸へ上陸。はじめは小田治久の神宮寺城(茨城県稲敷)を頼り、佐竹氏に攻められ落城すると阿波崎城、さらに小田氏の本拠である小田城(現茨城県つくば市)へと移る。親房は白河の結城親朝はじめ関東各地の反幕勢力の結集を呼びかけるが、1340、北朝方が高師冬を関東統治とために派遣する。小田氏に見限られた親房は関城(現茨城県関城町)の関宗祐、大宝城(現茨城県下妻市)の下妻氏を頼り、霞ヶ浦沿岸の諸城を転々として常陸での活動は5年に渡るが、1343年に両城が陥落すると吉野へ帰還している。加えて親房はこの時期に『神皇正統記』『職源抄』を執筆している。 四条畷の戦いで南朝方が高師直に敗れると、吉野をから賀名生に落ち延びる。観応の擾乱と足利家の内紛による騒乱がはじまると、これに乗じて一時は鎌倉奪回にも成功する。後醍醐の死後は後村上天皇を補佐し、1354年に賀名生で死去。
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