剣道
剣道(けんどう)という呼称は、「柔術」に対する「柔道」と同様に、明治時代以降に政府が日本の伝統武道を整備した際に公式に定着したもので、江戸時代の終わりまでは、主に剣術、撃剣と呼んだ。
ルール
板張りの床に境界を含め1辺9mか11mの正方形ないし長方形の試合場を作り、ここで試合をする。 試合では三人の審判が紅白の旗を持ち、一本取ったと思われる方の旗を挙げることになっている。二人以上の旗が挙がった場合、その選手は一本を取ったことになる。 試合形式は原則が三本勝負であり、二本先取した者を勝ちとする。試合時間は基本的に5分であり、これを過ぎると延長になる。この時点でどちらかだけが一本取っていた場合は一本勝ちとする。またどちらも一本取っていないかどちらも一本づつ取っている場合は時間を区切らず延長戦をし、先に一本取った者が勝ちになる。 一本勝負の場合、一本先取した者を勝ちとする。一本とは日本剣道連盟によれば、
充実した気勢、適正な姿勢を持って、竹刀の打突部(弦の反対側の物打ちを中心とした刃部)で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものである。審判はこれに該当しているかどうかを判断して旗を挙げる。 なお、反則を一試合中に二回すると相手の一本になる。
また、審判は次のどれかの場合、「止め!」と言って試合を中断させることが出来る。 選手が片手を竹刀から離して挙げ、審判にタイムを求めたとき 鍔迫り合いが永く続いた場合 選手が転倒した場合 選手が場外に出た場合(反則) 選手が竹刀を落とした場合(反則)
歴史
古代: 古事記、日本書紀において、伊弉諾尊が海中に刺して引き抜きたる矛の先より滴る水滴にて日本列島が生じたとあるがこれは日本の古代の姿を暗喩するものである。日本において青銅製の武器の作成が開始されたのは少なくとも紀元1世紀以降である。古代に日本を統一した勢力は朝鮮半島と深い関係を持ち、半島の各勢力との紛争に明け暮れたのみならず、中国・朝鮮半島からの開拓民・避難民の流入、これらの新しい諸勢力相互と日本各地の先住民との間に争いが絶えなかった。鉄剣の使用は、日本武尊の草薙剣の神話に象徴されるよう、古代日本を統一した勢力の軍事的優位の源泉であった。しかし鉄製の刀剣の国産が盛んになったのはようやく7世紀以降であって、推古天皇が「太刀ならば句礼(中国の呉)の真鋤(刀剣の意味)」と詠っているように古代は大陸からの輸入品が主流であった。刀鍛冶である「鍛冶戸」が朝廷によって各地におかれたのは8世紀以降である。
中世: 中世以降の日本と韓国を含む中国文化圏の大きな相違の一つには、武力、武人/軍人を賤視するか否かがある。儒教においては肉体を使う実労働すら君子たる人間の忌むべきところとされた。
平安期の日本においては、中国、朝鮮半島との紛争が沈静化し、国内統一がいったん実現されたこともあって、儒教の影響以前に、日本古来の呪術的発想から、軍事力ないし警察力の行使というケガレ仕事は国家の制度の内に公式のものとして存在を認めないという世界でも類の少ない特異な制度が採用された。
このことによって、逆に地方における警察力の欠如の環境での生存確保のためには、紛争における自力救済が必要とされ、平安時代以降、各地の自衛農民団、もしくは自衛海運業者団としての武士団の発展を促した。
古代から中世にかけての剣術の主要なものとして、「京八流、関東七流」がある。京八流は、源義経を指導したといわれる平安末期の鬼一法眼という僧侶の8人の弟子に発するといわれる。関東七流は、日本神話で東征を成功させた建御雷神(に象徴される集団)が鹿島に居ついて以降、古代より鹿島神宮の神職に伝承され、その7家から発すると言われる。
鎌倉時代において、武士階級が国家の中心勢力としての地位を確立するにいたって、日本は大陸の儒教文化圏からは異なった、武術と為政者がその習得を行うことに上位の価値を認める文化の形成を開始した。元寇において連続使用に耐えないという当時の日本刀の欠陥が明らかとなった教訓から、軟鉄の芯に硬鉄を外層とした、連続使用に耐えて硬度のあるものでも瞬時に寸断できる日本独自の湾刀が相州五郎正宗によってついに開発されたのは14世紀のことである。
室町時代には、香取神道流、陰流、念流という今日現存する日本の剣術の源流とされる3流派が生じている。香取神道流は一刀流の諸派に、陰流は、新陰流、柳生新陰流に、念流は馬庭念流につながる。14世紀の日本刀の革新と今日の剣道につながる剣術の成立はシンクロしていると言える。
しかし、戦国時代に及んでは、集団戦闘が中心となり甲冑の高度化が進んだ結果、戦場においては、太刀は、主要な武器とはならなかった。遠距離は騎馬突撃か鉄砲か弓矢、中距離は槍、至近距離は組討で戦われた。太刀では、重装備の相手に対してはまずは頭部を殴打して気絶させるといった使用法しかなかった。そのような目的には太刀よりも槍や棒のほうが適している。甲冑を装着した武者どうしの太刀による戦闘方法は、介者剣術とよばれ、目、首、脇の下、金的、内腿といった装甲のすきまとなっている部位を突斬りで狙うようなスタイルであり現在の剣道とは大きく異なっていた。現在の剣道は防具を装着していても基本的には平服での実戦を想定して成立している。2M前後の長刀が登場したが重装備の武者同士の格闘のための武器としてではなく、主に軽装備の歩兵集団を薙ぎ斬る目的か、斬馬刀として人の足か馬の足を狙うために活用された。但し、平時において、瞬時に人を殺傷し得る能力を持った人間=支配者たるための装置として、武士階級に不可欠の剣術と日本刀の組み合わせと様式は、この時代までには完成されていたのである。
江戸時代: 戦国以前から行われていた剣術が、平和な江戸時代においては、次第に道の概念を取り込んで変化していったという理解は正しい。上流の武家の習得した幕府もしくは諸藩公認の流派、例えば幕府の柳生新陰流と小野派一刀流といったものでは、薩摩藩における示現流のごときを少数の例外として、時代が下るにつれてあきらかに指導内容において実戦性よりも様式美が追求されるようになった。戦国期の武術は総合的な戦場での格闘技術を包括したものであったが、時代の変化に適合して剣術中心に特化した武術が、最低限、武士階級の習得するべきものとして抽出されたのである。
いわゆる剣道に分類されない日本の古武術や剣術、または他国の剣術・刀術と比較すると理解できるが、70cm以上の長刀を持って互いに真正面から相互の頭頂への打ち込みを狙うという戦闘スタイルは、よほどの力量差がなければ、確実に相打ちに終わってしまう。 江戸時代の封建社会にとって、武士が刀を抜いて私闘を戦わねばならなくなったら両者相打ちで死ぬのが為政者にとっても残された周囲の人間にとっても、後の紛争が発生せず面子も保たれる点で最も都合が良かった点に注目すると、現在の剣道でも採用されている戦闘方法には、江戸時代の封建社会の論理が貫徹していることを垣間見れるのである。
しかし、幕末において国防意識の高揚と国内の政争によって、北辰一刀流、神道無念流、鏡新明智流、天然理心流、薬丸示現流等、新興の実戦的な流派が各地に勃興すると共に、農民層にまで剣術が浸透するようになり、明治維新を迎えるのであった。
明治時代以降: 1868年の明治維新以降、士族が制度的には廃止され廃刀令が公布された。剣術は前時代のものという風潮が強まった。
1877年(明治10年) 西南戦争での東京警官隊の活躍ゆえに警視庁で剣術推奨の方針転換がなされ、剣術の復興の動きの端緒となった。後には警察で巡査に対して必修となった。 16世紀の火縄銃の丸い弾丸とは異なり、円錐型の銃弾をライフリングさせることで銃器の殺傷力は甲冑を無用の長物と化して、歩兵は軽装とならざるを得なかったゆえに、白兵戦での日本刀の有効性が再認識されたのだった。
1895年(明治28年)日清戦争の翌年に、国営の大日本武徳会が設立され、剣道のみならず各種の伝統武術の武道としての振興が国策として明確になり、国内の各流派の制度的統一が図られた。なお、注意されたいのは、「剣道」という呼称が制度的にあきらかになったのはこの大日本武徳会以降である。
1911年 (明治44年)中学で剣道を正課として採用可能となった。 また国営の武道専門学校が全国に設立された。
以後、敗戦に至るまで剣道は国民的に浸透し隆盛したのである。 全国大会、天覧試合(天皇が観戦する大会)も行われ多くの集客があった。
日本が欧米の植民地化に対抗するための国民皆兵を進めてゆく中で、古来の剣術の習得を簡便にしたものとして、剣道が、旧士族でない兵士に習得されることで白兵戦における日本兵の技能の向上に資した役割は少なくない。しかしながら、早くも16世紀に銃器という近世的軍事技術革新の恩恵に与りながらも、300年間近く、銃器登場以前の戦闘方法に様式美を求め至上の価値を置くという日本の封建制の論理は、明治以降も日本人、特に軍事関係者の価値判断に暗黙の影響を与え続けたゆえに、日本人が近代戦を本質的に理解することを妨げ、20世紀前半における悲劇を招いたと言わねばなるまい。
局地戦において、状況分析すら放棄して死を賭した最後の抵抗の意思の発露としてのみ意義があるバンザイ突撃を、銃剣、軍刀を振りかざして行って散華していった先人達について、それを可能にしたものが日本古来の精神的伝統であることの重要性と崇高さは理解しつつ、ここに日本人が克服せねばならない弱点もまた潜んでいることに気づかねばならない。
アメリカに奪回されたガダルカナルを1942年に最初に攻撃した一木少佐は900人の白兵突撃で数千人の海兵隊に一夜で勝てると本気で考えていたのだ。彼に指示を下した大本営も同様であった。 シンガポール、マレーでの成功を考えれば、また一木支隊の高い錬度から考えれば、あえて狂信とはいうまい。何故なら一説に実際にはアメリカ軍は一木支隊を攻撃するにあたり、ガスを使用したとも言う。(「遺体はソーセージ状に膨張しピンク色に光っていた」という記録あり) その真偽は別として、一事が万事という先の大戦での数々の失敗を見ると、様式美に昇華された趣のある武道的発想に囚われた判断に基づいて、もしくは精神主義によって本質的問題点を意図的に隠蔽もしくは発見すら出来ないような企画立案で、総力戦かつ殲滅線(すなわち、何でもあり)である近代以降の戦闘を勝ち抜くのは極めて困難だ、というのが重要な教訓である。
しかしこの教訓を日本人が十分に学んで克服し得たとはおよそ言えないのである。
第二次世界大戦後:
占領政策によりGHQにより剣道は禁止された。大日本武徳会は解散。
1952年、占領終了により剣道禁令の解除、全日本剣道連盟が結成される。1953年、第一回全日本剣道選手権開催。
2003年7月現在、国際剣道連盟 (International Kendo Federation, IKF) には44ヶ国が加盟している。国際剣道連盟が1970年に設立してから、三年後ごとに世界剣道選手権大会が開催されている。
現在、不幸にも韓国によって剣道の起原が朝鮮半島にあるといった捏ちあげの説が世界に流布されており、全剣連による一刻もはやい対策が必要である。韓国側は剣道(けんどう kendo)をコムド(kumdo)と称し 日本の文化を知らない外国人を騙している。
段位級位制
?~一級までの級、 初段、弐段、参段、四段、五段、六段、七段、八段までの段、 および錬士、教士、範士の称号がある。よって最高位は範士八段である。