商鞅
商 鞅(しょう おう - 紀元前338年)は中国戦国時代の秦国の政治家。法家思想をもとに秦の国政改革を進め、のちの秦の天下統一の礎を築いたが、自身は周囲の恨みを買い、殺された。公孫鞅、衛鞅とも。
仕官まで
商鞅は元の名を公孫鞅(こうそんおう)と言い、衛の公族だった。若い頃から学問に励み、仕官を志して魏の恵王の宰相公叔座の客となった。公叔座が死ぬ時に恵王に「私が死んだら公孫鞅を宰相としてください。必ずや魏を強大にしてくれましょう。もしこれを聞き入れてくださらないならば公孫鞅を殺してください。もし他国が登用してしまえば取り返しがつきません。」と遺言した。しかし恵王は公叔座が耄碌してこんな事を言っているのだと思い、これを聞かずに公孫鞅を登用も誅殺もしなかった。身の危険を感じた公孫鞅は魏を出て秦に入り、つてを頼って秦の君主孝公に会う事が出来た。
公孫鞅はここぞとばかりに孝公に向かって熱弁した。最初に会った時はまず最高の為政者である帝の道を説いた。しかし孝公は退屈そうにして途中で居眠りしてしまった。次に会った時は一つ程度を下げて王の道を説いた。しかし孝公の反応は変わらず、三度目に会った時に更に程度を下げて覇者の道を説いた。そうすると孝公は熱心に聞き入り、無意識の内に公孫鞅ににじり寄るほどにこの話を気に入った。
第一次変法
紀元前359年、孝公は公孫鞅の主導の下に変法(へんぽう)と呼ばれる国政改革を断行する。これは第一次変法と呼ばれる。主な内容は以下の通り。 民衆を五戸で一組に分ける(これを什五と呼ぶ)。この中で互いに監視する事を義務付け、もし罪を犯した者がいて訴え出ない場合は五戸全てが罰せられる。逆に訴え出た場合は戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。 一つの家に二人以上の成人男子がいながら分家しない者は罰せられる。 戦争での功績には爵位を持って報いる。私闘をなすものは罰せられる。 男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績が良い者は税が免除される。商業をしたり怠けたりして貧乏になった者は奴隷の身分に落とす。まず、民衆に法をしっかりと執行するとを信用させるために、木を都である雍の南門に植え、この木を北門に移せば十金を与えようと布告した。しかし、民衆はこれを怪しんで、木を移そうとしなかった。そこで、賞金を五十金にした。すると、ある者が木を北門に移したので、公孫鞅は布告どおりに、この者に五十金を与えた。こういったことで、まずは変法への信頼をえることができた。
しかし、最初は新しい法は上手くいかず、民衆からも不満の声が上がったが公孫鞅は意に介さなかった。公孫鞅は法が上手くいかないのはきちんと守られてないせいであると考えた。その時、孝公の太子(後の恵文王)が法を破ったのでこれを処罰する事を孝公に願い出た。さすがに次代の君主である太子を直接罰する事は出来ないので大使の傅(もり役)と家庭教師をそれぞれ脚斬りと入墨の刑にした。この後は全ての人が法を守った。そうすると法の効能が出始め、10年もすると田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになり、道に物が落ちててもこれを自分の物にしようとする者はいなくなった。
第二次変法
紀元前352年、この蓄えられた力を使い秦は魏に侵攻し、城市を奪った。この年に公孫鞅は更に変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。今回の主な内容は以下の通り。 父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。 集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置く。(郡県制への移行) 田地の区画整理。 度量衡の統一。 秦では父子兄弟が一つの家に住んでいたが、中原諸国から見るとこれは野蛮な風習とされていた。一番目の法は野蛮な風習を改めると共に第一次変法の二番目と同じく戸数を増やす意味があったと思われる。二度目の変法によりますます秦は強大になった。
紀元前340年、前年に斉の孫臏に敗北して疲弊した魏へ侵攻し、黄河以西の土地を奪った。危険を感じた魏は大梁に遷都し、恵王は「あの時の公叔座の言葉に従わなかったためにこのような事になってしまった。」と大いに悔やんだ。
この功績により公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる。
没落
比類なき功績で得意の絶頂であった商鞅だが、強引に変法を断行した事により太子の傅を初めとして商鞅を恨む人間を大量に作っていた。彼らの多くは旧来の貴族であり、変法により君主独裁権が確立されるとそれだけ彼らの権限が削られていくので、商鞅を恨んでいた。紀元前338年、孝公が死去し、恵文王(この時点では恵文君)が即位すると反商鞅派は商鞅に謀反の罪を着せ殺そうとした。商鞅は慌てて逃亡し、途中で宿に止まろうとしたが、宿の亭主は商鞅である事を知らず、「商鞅様の命により、旅券を持たない人間は止めてはいけない事になっています。」と断られた。
長嘆息した商鞅は一旦魏に逃げるが、商鞅の事を恨んでいる魏はこれを国内から追放した。仕方なく商鞅は封地の商で兵を集めたが、秦の討伐軍に攻められて殺された。その死体は見せしめとして車折の刑に処せられた。しかし商鞅が死んだ後も商鞅の法は残り、最終的に秦が戦国時代を統一できたのも商鞅の法があったからと言えるだろう。