弁財天
弁財天(べんざいてん)は、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī/漢字で薩羅薩伐底) が仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。弁天とも言われ、七福神の一員である。
名前の由来
弁財天は、はじめは弁才天であった。 弁才天にあたるサラスヴァティーは吉祥天にあたるラクシュミとともにインド土着の女神であり、インドでは「リグ・ヴェーダ」以来、崇拝されてきた。サラスは水の意味、バティーは持つもの(富むもの)の意味であり、一説にはインダス川の神格化ともいわれ、土地豊饒の大河の清らかな瀬音を神格化したものとされる。その音が流れる言葉のようであることから、「ブラーフマナ」というインド神話にでてくる「言葉の神様=ヴァーチ」と同一視され、言語・学問・音楽の神とされた。このことから弁才天と訳されたのである。
この世の最高原理「ブラフマン」を人格化したものが三大主神の一つ、創造の神ブラフマー(梵天)である。古代インドで祭式万能の時代を背景に、祭官の発する「ことば」の霊力が重要な意味を持つようになると、ブラフマンはこの霊力そのものと理解されるようになり、その前からあったヴァーチと習合した。 サラスヴァティーはブラフマーの娘にして、配偶神であるとされている。
八臂の弁天と二臂の弁天
よく知られているのは宝船の絵にあるような、琵琶を抱えた二臂の弁天像であるが、古いものでは八本の手に武器などを持った八臂弁天が多い。臂(ひ)は仏の手の本数の数え方。江ノ島のように八臂と二臂の二つの弁天像をおくところもあるが、そういったところの多くは八臂のほうが古い。八臂の弁天像は、「金光明経」および、その後に訳された「金光明最勝王経」を典拠とするものである。 天武天皇の四年(676年)に、全国に使者を遣わして「金光明経」「仁王経」を購読させている。 694年には藤原京遷都を前に、「金光明経」100部を諸国に置き、毎年正月上弦の日に読経を命じた。728年には「金光明最勝王経」の新訳640巻を、諸国に10巻ずつ分かち与え、国家平安を祈願した。これがのちの国分寺の聖典となったのである。このように、わが国では非常に古い時代からこの教典は奉じられていた。金光明経弁才天女品の誓願には、「世間有情にこの経を聴聞護持するものあらば、意・体・物の福智を授け、弁舌豊かにする」とあって、これが弁才天ということになる。八本の手には、弓・刀・斧・羂索(けんさく)・箭(さ/矢のこと)・三鈷戟(三鈷戟/三つ又の槍)・独鈷杵(とっこしょ/金属・象牙などでできた中央に握り部分があって両端がとがっている密教の仏具)・輪をもつ。八臂の弁天像の頭上をよくみると、人頭蛇身の宇賀神を乗せ、さらに鳥居を付すものが少なくない。
二臂の弁天像は、「大日経」(正式には「大毘盧遮那成仏神変加持経」)によるもので「妙音天」として琵琶を持った姿で顕現する。「大日経」は7世紀の中頃にインドで成立したと考えられる密教の経典である。真言宗伝持五祖の一人、善無畏(シュバカラシンハ/637年~735年) がシルクロードを経由して長安に入り、胎蔵界(大日経系)密教を伝えたのが716年。最澄が中国天台山で天台宗の教えを受け、善無畏の孫弟子順曉から密教の伝法潅頂(でんぽうかんじょう)を受けて帰国したのは805年。その翌年に空海が中国青竜寺で恵果和尚から密教の伝法潅頂を受け、第八祖としての地位を継承して帰国した。日本に二臂の弁天像が現れたのは、その後のことであると思われる。
なお、インドのサラスヴァティーは四臂を有し、羂索(けんさく)、祭匙(さいし)、数珠、水瓶、ベーダなどを手に持って、蓮花の座(世界蓮)または鵞鳥・クジャク・白鳥(それらは弁才天の乗物(バーハナ)とされている) の上に座っている。
弁才天から弁財天へ
史料をみると辯才天とも辨財天とも書かれているが、「辯」「辨」ともに当用漢字では「弁」にまとめられている。鎌倉時代以降、弁才天は弁財天とも記され福徳の神として尊信されるようになるが、これは、恵比寿、大黒天、弁財天の三神信仰が鎌倉から室町時代にかけて広まったことによると考えられる。そののち、「仁王般若波羅密経」の中にある「七難即滅 七福即生」から、毘沙門天、布袋尊、福禄寿、寿老人の四神が加わり、七福神信仰がおこったといわれる。「七難即滅 七福即生」は、上野の寛永寺を開いた天海上人がいったこととして、七福神信仰は天海上人からおこったという説もあるが、江戸時代以前に七福神信仰は芽生えていたようである。
しかし、初期の七福神は唯一の女神が吉祥天であったりと、メンバーの異なるものもある。また、江戸時代初期の江戸絵図をみると、ほとんどが「弁才天」と書かれており、江戸時代中期以降「弁財天」に変わったものが多い。これは、おそらく江戸時代中期以降の七福神詣の流行によるものであろう。ちなみに、琵琶湖を模してつくられた上野不忍池の弁天島にある弁天堂の御朱印は「辯才天」と書かれている。
弁天信仰
弁天信仰の広がりとともに各地に弁財天を祭る社が建てられ、弁才天は日本土着の水神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)や穀物神の倉稲魂命(うかのたまのみこと)と習合。さらには美貌の女神、吉祥天とも集合する。これらを祀る弁天社は、明治の神仏分離の際に多くは神社となり、祭神は弁才天から市杵島姫命に改められた。弁才天(市杵島姫命)を祀る神社については宗像三神を参照。弁財天を市杵島姫命として祭る良く知られた神社として、天河神社がある。 また、元禄時代より「一つ目弁天」として知られた杉山検校の宅地跡にある江島杉山神社の岩屋の奥には、多伎津姫命・市杵島姫命・田心姫命の三姫神の像とともに、人頭蛇身の宇賀神が弁才天として祀られている。