対馬府中藩
対馬府中藩は江戸時代に対馬国全体と肥前国の一部を治めていた藩で別名厳原藩。藩主は宗氏で代々対馬守と称した。土地柄、稲作がほとんど不可能であった為、肥前国の飛び地をのぞくと実質的には無高に近い。しかし朝鮮の釜山に屋敷(倭館)をもち、朝鮮との貿易を生業としていたため、実質的な収入は多かった。また幕府は朝鮮との重要な外交窓口として重視し、対馬府中藩を国主10万石格として遇した。
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対馬府中藩対馬府中藩は江戸時代に対馬国全体と肥前国の一部を治めていた藩で別名厳原藩。藩主は宗氏で代々対馬守と称した。土地柄、稲作がほとんど不可能であった為、肥前国の飛び地をのぞくと実質的には無高に近い。しかし朝鮮の釜山に屋敷(倭館)をもち、朝鮮との貿易を生業としていたため、実質的な収入は多かった。また幕府は朝鮮との重要な外交窓口として重視し、対馬府中藩を国主10万石格として遇した。 |
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