加藤清正
加藤 清正(かとう きよまさ、永禄5年6月24日(1562年7月25日)-慶長16年6月24日(1611年8月2日))は安土桃山時代・江戸時代の大名。幼名は虎之助。尾張国出身。母が豊臣秀吉の血縁にあったため、早い時期から秀吉に仕える。賤ヶ岳の合戦で賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる戦功を挙げて以降、数々の戦いで功をあげる。
天正16年(1586年)、肥後の佐々成政が改易された事により、小西行長と共に肥後半国を与えられ、熊本城を居城とする。熱心な日蓮宗信者で領内に日蓮宗の寺の建立を勧めた。
文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵。文禄の役では朝鮮二王子の生捕りや、オランカイ(現在の中国東北部)への威力偵察など、数々の功を挙げたが、石田三成と意見の対立が生じ、それが元で秀吉の勘気を受け京に戻される。慶長の役では小西行長と共に先鋒となり全羅道攻略、蔚山城篭城などで活躍した。朝鮮では石田三成や小西行長ら、いわゆる文治派と対立し、後々まで尾を引いた。
関ヶ原の役では積極的に徳川家康に協力し、東軍勝利の礎を作った。役後、肥後の小西行長旧領を与えられ52万石の大大名となる。なお小西行長が居城とした宇土城はこの時、徹底的に破却された。
その後、豊臣秀頼と徳川家康との和解を斡旋するが慶長16年に熊本城で病死。墓所は熊本、本妙寺。
築城の名手として知られ、熊本城や蔚山城、江戸城など数々の城の築城に携わった。