殷
殷(いん)(紀元前1600年頃 - 紀元前1046年)は、実在が確認されている中国最古の王朝である。夏王朝を滅ぼして王朝を立てたといわれており、周に滅ぼされた。殷の名は次の王朝である周がつけたもので、自らは商と称した。また王家の姓は子であった。
殷の歴史
王朝成立以前
伝説上、殷王朝の始祖は、契とされている。契は、有娀氏の娘で、帝嚳の次妃であった簡狄が玄鳥の卵を食べたために生んだ子とされている。契は、帝舜のときに、禹の治水を援けた功績が認められ、帝舜により、商に封じられ、子姓を賜った。その後、契の子孫は、代々夏王朝に仕えた。また、契から天乙までの14代の間に8回都を移したという。
契以降の系図
契 昭明 契の子 相土 昭明の子 昌若 相土の子 曹圉 昌若の子 冥 曹圉の子 振 冥の子 微 振の子 報丁 微の子 報乙 報丁の子 報丙 報乙の子 主壬 報丙の子 主癸 主壬の子 天乙 主癸の子、夏を滅ぼして天子になる
成湯、夏を滅ぼす
契から数えて13代目の成湯は、亳に都していた。 成湯は、賢人伊尹の助けを借りて、暴虐な夏の帝桀を倒し、諸侯に推戴されて、天子となった。
太宗の善政
殷の4代目の帝太甲は、暴君であったために、伊尹に追放された。後に、太甲が反省したので、伊尹は許した。後、太甲は善政を敷き、太宗と称された。
中宗の中興
帝雍己の時に、王朝は一旦衰えた。帝雍己の次の帝太戊は賢人伊陟を任用し、善政に勤めた。殷王朝は復興した。帝太戊の功績を称えて、帝太戊は中宗と称された。
祖乙の復興
中宗の死後、王朝は再び衰えた。帝祖乙は、賢人巫賢を任用し、善政に勤めた。殷王朝は復興した。
盤庚の遷都
帝祖乙の死後、再び王朝は衰えた。帝盤庚は、殷墟に移り、成湯の頃の善政を復活させた。
高宗の中興
帝盤庚の死後、再び王朝は衰えた。帝武丁は、賢人傅説を任用し、殷王朝の中興を果たした。帝武丁の功績を称えて、帝武丁は高宗と称された。
帝紂の暴虐
高宗以降の帝は概して暴君であった。殷王朝最後の帝紂は即位後、妲己という美女に溺れ、滅茶苦茶な政治を行った。そのため、周の武王に討たれた。そして、殷王朝は滅亡した。
殷王朝のその後
帝紂の子である武庚は、周の武王に殷の故地に封じられた。武王の死後、武庚は、武王の兄弟とともに反乱を起こしたが失敗した。その後、帝紂の兄である微子啓が宋に封じられ、殷王朝の祭祀を続けた。
殷の天子の一覧
天乙(成湯) 外丙 仲壬 太宗太甲 沃丁 太庚 小甲 雍己 中宗太戊 仲丁 外壬 河亶甲 祖乙 祖辛 沃甲 祖丁 南庚 陽甲 盤庚 小辛 小乙 高宗武丁 祖庚 祖甲 廩辛 庚丁 武乙 太丁 帝乙 帝辛(紂)
関連項目
夏商周年表プロジェクト 夏商周年表 甲骨文字 青銅器
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