斉 (春秋)
斉(せい、紀元前1046年 - 紀元前221年)は周代、春秋時代、戦国時代に渡って現在の山東省を中心に存在した公国。周建国の功臣太公望によって立てられた国である。国姓は姜(あるいは羌)。紀元前386年に家臣の田和によって簒奪され、姜姓の君主の血は途絶えた。簒奪以降の斉を太公望の斉と区別して田斉とも呼ぶ。首都は臨淄。殷を倒した後に太公望が斉に封じられたが、当時の周の実力では東方には影響力を及ぼせず、萊と呼ばれる族がこの地域にいた。領地を与えたと言うよりは、太公望に東方を制圧する事を命じたと言った方が実情に近いだろう。太公望は萊を討ち、現地の風俗に合わせて政治を簡素にし、この地方を安定させた。
その後も領土を拡大し、春秋時代に入る頃には東の強国となっていた。斉は海に面していることより塩の生産が行われ、鉄の産出地でもあったため、大いに富み栄えた。
第15代桓公の時代には管仲の補佐により強大となり、周王朝に変わり諸侯の主導を取るようになり、南の楚の脅威に対抗した。紀元前667年、桓公は周王から覇者として認められ、春秋五覇の一人と後世から呼ばれる。
しかしその死後に後継争いが続き、覇者の地位は晋の文公へと移った。その後も大国ではあったが、北の晋と南の楚が主役であり、それに斉と秦が絡んでくると言うのが春秋中期の形勢であった。この頃から徐々に大臣の力が強くなり、君主の力は弱くなっていた。
24代荘公の時の宰相崔杼は荘公が妻と密通していた事に怒り、荘公を殺した。崔杼は別の君主を立てたが、後に殺される。その後の紀元前532年、晏嬰が宰相となり政務を執り行い、軍事面では司馬穰苴を登用し、国政を安定させた。
晏嬰は「斉はいずれ田氏に簒奪されるだろう。」と言っていた。田氏とは紀元前672年に陳から亡命してきた田完の血筋の事である。晏嬰の予言通りに紀元前386年に田和が公位を簒奪し、呂氏に代わって斉の君主となった。これ以降の斉は田斉と呼ばれる。
田斉3代目威王は「鳴かず飛ばず」の逸話で有名な君主で、独創的な政策で国勢を高めた。軍事面では孫臏を登用し紀元前341年の馬稜の戦いで魏を破った。また学問も盛んになり、首都・臨淄の稷門に集められた学者達は稷下の学士と呼ばれ、学府として栄えた。代表的な人物に淳于髠・荀子などがいる。
威王の子宣王が紀元前334年に魏の恵侯とともに王号を称した。(威王の王号は追号である)
その後も国勢は高くなり、東の斉・西の秦の二大国時代を作った。5代湣王は秦の昭襄王と共に王より高い称号である帝を名乗り、東帝と名乗った。しかしすぐに諸侯の反感を恐れて王に戻した。この時期には孟嘗君が宰相となり国政を見ていたが、湣王は自分よりも孟嘗君の名声が高くなるにつれて、次第に孟嘗君が疎ましくなり殺そうとしたので、孟嘗君は逃亡した。
更に湣王は宋を滅ぼした。しかしその裏では楽毅主導による諸国連合の策謀があった。紀元前284年、楽毅に率いられた燕・秦・趙・魏・韓の連合軍により斉の軍は大敗。楽毅により首都・臨淄が陥落させられ、湣王は亡命先で殺された。
楽毅により滅亡寸前にまで追い詰められるも田単の活躍により襄王が即位し、何とか斉は復興した。とは言え国力は激減しており、かってのように天下を秦と争うのは無理になった。
その後、斉は秦によって滅ぼされていく他国を傍観する政策を取った。確かにこの政策により短い間の平和を手に入れることが出来たが、その結果最後にはまったく味方が無い状態で秦と向かい合うことになった。紀元前221年に秦王政に派遣された将軍王賁により最後の王斉王建が捕らえられ、斉は滅亡した。