武帝 (漢)
武帝(ぶてい 紀元前156年 - 紀元前87年 在位141年 - 紀元前87年)は中国前漢の七代目皇帝。孝武皇帝。高祖劉邦の曾孫にあたる。諱は徹。廟号は世宗。
内政
景帝の九子として生まれ、先に皇太子に立てられていた子を押しのけて即位した。即位に当たって太皇太后の竇氏の意向が強く働いていたために、即位当初は竇氏が実権を握っていた。呉楚七国の乱により有力な封王が倒れた事で中央集権化の道が開け、武帝は儒教を導入する事により中央集権への移行を目指した。
まず諸侯王の地位を王太子一人に継がせずに息子全てに分割して継がせる事を定めた。これにより諸侯王の領土は細分化され、併せて領内の管理任命権を中央へ戻し、諸侯王が再び呉楚七国の乱のような反乱が起こせないように力を削った。これは推恩の礼と呼ばれる。
また、郷挙里選の法と呼ばれる官吏任用法を採用した。これは各地方郷里の有力者とその地方の太守が話し合って当地の才能のある人物を推挙するもので、武帝は特に儒教の教養を身につけた人物を登用した。
これらの政治制度と共に董仲舒の献策により五経博士設置により儒教を国教化し、中央集権体制を確立した。これ以降、清代に至るまでの中国の国教としての儒教がここに始まる。
外征
これらの体制と文景の治による多大な蓄積を背景に、宿敵匈奴への作戦を開始する。高祖劉邦が冒頓単于に敗れて以来、漢は匈奴に対して低姿勢で臨んでいたが、武帝は反攻作戦を画策する。かって匈奴に敗れて西へ落ちていった大月氏へ張騫を派遣する。大月氏との同盟で匈奴の挟撃を狙ったが、同盟は失敗に終わった。しかし張騫の旅行によりそれまで漠然としていた北西部の情勢がはっきりと解るようになった事が後の対匈奴戦に大きく影響した。
武帝は衛青・霍去病の両将軍を登用して、匈奴に当たらせ、幾度と無く匈奴を打ち破り、西域を漢の影響下に入れた。更に大宛を征服し、南越に遠征し、郡県に組み入れ、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする四郡を朝鮮に置いた。
これらの成果により前漢の版図は最大にまで広がり、武帝の治世は前漢の全盛期と賞される。高祖劉邦にすら成し遂げられなかった匈奴打倒を達成した武帝は泰山に封禅の儀式を行って、自らの功績を上天に誇った。またこの頃に史上初めての元号を定めた。
治世後半
しかし全盛は退廃への第一歩でもある。治世も30年を過ぎると長年にわたる外征や自身の不老長寿願望等から来る奢侈により財政の悪化をもたらし、その解決のため塩鉄の専売や、増税、貨幣改鋳も行った。これらの負担により流民化する民衆が増えて、民衆反乱を誘発させた。また感情的に不安定になり、江充のような酷吏を信用するようになった。江充は当時皇太子であった戻太子に恨みを買っていたので武帝死後に戻太子に誅殺される事を恐れて、戻太子に武帝を呪い殺そうとしていると言う疑惑を被せて殺そうとした。進退窮まった太子は兵を上げて江充を殺すが、武帝の放った追っ手に追われ、自殺したとも、彼等に殺害されたとも言われる。
その後、長い間皇太子の座は空白だったが、晩年に至り末子の弗陵(後の昭帝)を皇太子とし、霍光・金日テイ(石編に單)・上官桀の三人に後を託して死去した。
歴史的評価
武帝は漢代の名君の一人として、また史上最高の名君の候補として名前が上がる。武帝の積極的な性格が匈奴を退ける事が出来た要因の一つである事は間違いない。しかしその積極性が後半の悪政を生んだとも言える。|
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次代 昭帝 |
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