満州国
満州国(満洲国、まんしゅうこく)もしくは満州帝国(まんしゅうていこく)は、1932年から1945年の間、満州地域(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)に存在した国家である。満州民族の立てた王朝であった清の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を元首(執政、のちに皇帝)とし、満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満州人」による民族自決の原則に基づいた国民国家であることを理念とする。しかし実際には、1931年の満州事変によってこの地域を占領した日本の政府・軍の強い影響下にあり、当時の国際連盟加盟諸国は、「満州国は日本の傀儡国家であり、満州地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。このことが1933年に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。
第二次世界大戦の日本の敗戦、ソビエトの侵攻によって満州国が解体され、ソビエトから中国共産党の支配地域となると、この地域において独立を宣言した満州国は断罪の対象となり、戦後の中華人民共和国では、偽満州国(あるいは省略して偽満)と呼ばれることもある。
満州国の建国と滅亡
建国の背景
20世紀初頭の日本では、満州地域の植民地化を目指すロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなされていたため、日本は対抗して日清戦争・日露戦争を通じて、満州の南の朝鮮半島・遼東半島に進出、満州にも影響力を伸ばしつつあった。第一次世界大戦中にロシアで革命が起こり、ソビエト連邦が成立すると、共産主義の拡大に対する防衛基地として満州の重要性が高まり、日本の生命線と見なされるようになった。一方、満州は清朝時代には帝室の故郷として漢民族の植民を強く制限していたため、1912年の清朝崩壊後は権力の空白地帯となっており、軍閥の張作霖が支配を確立しつつあった。満州を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満州における日本の権益を確保しようとしたが、中国革命の進展によって国民党の勢力が満州に及ぶことを恐れ、1920年代の後半から対ソ戦の基地とすべく、長城以東の全満州を国民党の支配する中華民国から自立させ、日本の影響下に置くことを企図するようになっていた。
建国
1931年9月、満州事変を起こして全満州を日本の関東軍が占領すると、翌年1932年2月に、遼寧・吉林・黒竜江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満州新政権に関する協議をはじめ、張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織、2月18日に「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、中国国民党政府からの分離独立宣言を発する。元首として清朝の最後の皇帝愛新覚羅溥儀を担いで満州国執政とし、1932年3月1日、満州国の建国が宣言された。首都には長春が選ばれ、新京と改名された。1934年には溥儀が皇帝の座につき、1943年に国名は満州帝国(満洲帝国)に改められた。
満州国をめぐる国際関係
一方、満州事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月にリットン調査団を派遣することを決議した。1932年3月から6月まで中国と満州を調査したリットン調査団は、10月2日に至って満州事変を日本による中国主権の侵害と判断し、満州に対する中華民国の主権を認める一方で、日本の満州における特殊権益を認め、満州に中国主権下の自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を勧告をする報告書を提出した。9月15日に斎藤実内閣のもとで政府としても満州国の独立を承認、日満議定書を締結して満州国の独立を既成事実化していた日本は、リットン報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーブで開かれた国際連盟に送り満州国建国の正当性を訴えたが、総会において賛成42対反対1(日本)棄権1(シャム)により報告書が採択されると、日本は1933年3月国際連盟を脱退する。1932年に国際連盟で否認されたとは言っても、第二次世界大戦の終結以前に満州国は日本の同盟国など、以下の23ヶ国の承認を受けていた。当時の独立国あるいは政府は現在に比較して少なく、およそ80ヶ国である。
日本・中華民国南京国民政府・ドイツ・イタリア・スペイン・ヴァチカン・ポーランド・クロアチア・ハンガリー・スロバキア・ルーマニア・ブルガリア・フィンランド・デンマーク・エルサルバドル・タイ・ビルマ・フィリピン・蒙古自治邦(内モンゴル)・自由インド仮政府
第二次世界大戦が終わると、ソビエト連邦がヤルタ会談の秘密協定にもとづいて満州国を占領した。その後国共内戦において、中国共産党が早期に全満州地域を掌握した。
満州国の国政
満州国は公式には五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であった。五族協和とは、満州・蒙古・支那・日本・朝鮮の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満州国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満州にはこの五族以外にも、ソビエトから逃れてきた白系ロシア人・ユダヤ人等も居住していた。
国旗
国旗のそれぞれの色は国を支える五つの民族を意味する。すなわち黄色は満州民族、赤色は日本民族、青は漢民族、白はモンゴル民族、黒は朝鮮民族のイメージを持ち、これら五つの民族のイメージカラーを一つの国旗に表す事により、満州国建国の大義名分である五族共和を示した。
政治
執政は皇帝の愛新覚羅溥儀を元首とし、最高諮問機関として参議府、行政機関として国務院を置いた。1935年に満州の独立宣言を発した東北行政委員会の委員長の張景恵が、行政の長である国務院総理に就任した。しかし実際の政治運営は、日本の駐満州大使と関東軍司令官の指導下に行われた。執政は国務院総理をはじめとして各大臣を任命することができたが、次官以下の官僚に対しては「日満議定書」によって関東軍が日本人を満州国官吏に任命や罷免する権限をもっていたので、関東軍司令官の同意がなければ任免することができなかった。関東軍は日本人を各省庁の次官・長官に任命してこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ。議会に相当するものは存在せず、政治結社の組織も禁止されており、満州帝国協和会という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、政策の国民への浸透や国政の指導を執り行った。
満州国は日本の支援のもと、きわめて短期間に発展し、内戦の続く中国からの漢民族や、新しい環境を求める朝鮮人、そして日本政府の政策に従って未開拓地に入植する日本人などの移民が相次ぎ、人口も急激な勢いで増加した。移民政策の成功は五族協和の理想が一定の成功を収めていたことを示すが、一方で日本人や朝鮮人には日本国籍を維持させ満州国の国民形成が十分に行われなかったことは、この国が傀儡国家視される所以でもある。
行政区分
| 満州国 | 現中国 |
|---|---|
| 吉林省 | 吉林省 |
| 四平省 | |
| 通化省 | |
| 間島省 | |
| 龍江省 | 黒龍江省 |
| 浜江省 | |
| 牡丹江省 | |
| 東安省 | |
| 三江省 | |
| 北安省 | |
| 黒河省 | |
| 安東省 | 遼寧省 |
| 奉天省 | |
| 錦州省 | |
| 興安北省 | 内モンゴル自治区 |
| 興安東省 | |
| 興安南省 | |
| 興安西省 | |
| 熱河省 |
熱河省の南部は、現在は河北省の一部である。
関東州(現在の遼寧省の一部)は、満州国建国以前から日本が中国から租借していたが、満州国建国後は満州国の領土の一部とされ、満州国からの租借地として扱われた。
経済
政府主導・日本資本導入による重工業化、近代的な経済システム導入などの経済政策は成功を修め、急速な発展を遂げるが、日中戦争による経済的負担、そしてその影響によるインフレーションは、満州国体制に対する満州国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を廃するため一業界につき一社を原則とした。世界史的にも稀なスピードで発展した満州国の産業基盤は、満州国解体後、中国共産党の支配下となり、国民党との争いや中国全土への勢力拡大の重要な発展基盤として活用される。
満州国と満鉄
日本の半官半民の国策会社南満州鉄道(満鉄)は、満州において日本が満州国建国以前より敷設したが、満州国の成立後は特に満州国の自立に向けて大きな役割を果たした。鉄道経営を中心に炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林牧畜に加えてホテル、図書館、学校などのインフラ整備も行った。これらは日本撤退後の中国東北部の経済にも大きく役立っている。新京(現在の長春)や大連、奉天といった主要都市では現在でも当時の建築をたくさん目にすることが出来る。
関連項目