昭和基地
昭和基地(しょうわきち)は、南極圏内の東オングル島にある日本の観測基地。名称は、基地が建設された時代の元号にちなむ。昭和基地は、天体・気象・地球科学・生物学の観測を行う施設である。施設は53の棟から成る。3階建ての管理棟のほか、居住棟、発電棟、汚水処理棟、環境科学棟、観測棟、情報処理棟、衛星受信棟、焼却炉棟、電離層棟、地学棟、ラジオゾンデを打ち上げる放球棟があり、このほか、大型受信アンテナ、燃料タンク、ヘリポート、太陽電池パネルがある。また、貯水用の荒金ダムもある。1000キロ離れた南極大陸内にドームふじ観測拠点があり、ヘリコプターで移動する。
2003年1月から2004年1月2日まで、NHK南極ハイビジョン放送センターがあった。
医務室、管理棟、厨房、食堂、通信室、公衆電話室、図書室、娯楽室などは管理棟内にある。医務室は手術ができる設備があることで有名だが、実際は非常時用で、手術例はほとんどない。よほどのことがない限り、急患はヘリポートから他国の設備の整った基地に運ぶようになっている。
荒天時は使用しない特殊な棟(放球棟など)を除き、各棟は渡り廊下で接続されている。これは、他国の南極基地で3m離れた別棟のトイレに向かった隊員が遭難死する事故があったため、このような事故を防ぐためである。
2004年現在、約60名の南極地域観測隊員がおり、そのうち約40名が越冬する。翌年度の隊が来た観測船で前年の越冬隊が帰国するため、基地には常に人がいることになる。所管は文部科学省と極地研究所。2004年3月現在、基地に残っているのは45次越冬隊と朝日新聞南極支局員である。
このほか日本へ放送の送信を行うNHK職員5名が2002年12月から越冬していたが、2004年3月に帰国した。
1次越冬隊の際に有名になったカラフト犬は、その後南極条約により南極への持ち込みが禁止されたため、現在はいない。
歴史
昭和基地の歴史はほぼそのまま日本の南極観測の歴史でもある。当初は国際地球観測年に協力するためのもので、日本はこの年の12か国による共同南極観測に参加した。本来は2次で終了する予定であった。
1951年に国際地球観測年が提唱されると、日本はこれに参加。当初、赤道観測を行う予定であったが、予定地の領有権を持つアメリカの許可が出ず、1955年2月、南極観測に切り替える。準備期間が短く、観測船「宗谷」も旧船を急ぎ改造したものであった。観測隊出発まで基地の場所は決まらず、決定は隊長に一任されていた。
1956年出発した南極観測船「宗谷」で永田武隊長率いる第1次南極観測隊53名が東オングル島に到着。1957年1月29日、永田らが上陸、昭和基地と命名する。1月31日正式決定のあと2月1日から建設が始まる。2月8日、永田はここで一夜を明かした。永田らは2月15日に離岸する。このとき完成していた棟は4つで、うち1つは発電棟だった。隊員のうち西堀栄三郎越冬隊長以下11名が越冬した。1次隊は観測器具が凍りつくなどの極度の困難が続いた。このときに輸送などで活躍したのが、カラフト犬による犬ぞりであった。
1958年、1次隊に続けて隊長となった永田率いる第2次観測隊を乗せた「宗谷」は、深い岩氷に挟まれ、接岸を断念。2月14日、全隊員は飛行機とヘリコプターで脱出した。犬のうち15頭はその後の活動のため残された。しかし天候は回復せず、2月24日正午(一説では13時)、永田は越冬不成立を宣言。犬は置き去りにされた。しかし、1年後、第3次越冬隊が昭和基地に到着すると、犬のうちタロとジロの2頭が昭和基地で隊員を待っているのが発見された。この逸話はのちに「南極物語」という映画になっている。
1960年10月10日、基地内でそりを固定しようとしていた第4次越冬隊員福島紳が遭難。同10月17日死亡が確定される。遭難地点には越冬隊によってケルンが建てられた。このケルンは福島ケルンと呼ばれ、南極条約により南極の史跡遺産に指定されている。福島の遺体は1968年、4km離れた西オングル島で発見された。
当初2次で終了する予定であった観測隊は、2次観測隊の不成立により3次まで延長され、その後5次まで延長された。さらに再延長を求める声が高まったが、「宗谷」の老朽化により、1961年出発、1962年帰還の第6次観測隊(越冬はせず)により日本の南極観測は中断、昭和基地は再び閉鎖される。こののち1965年出発の第7次観測隊及び越冬隊から復活、2004年も観測は続いている。しかし、南極観測船しらせの老朽化により、観測隊の続行が危ぶまれている。
関連項目
みずほ基地 あすか観測拠点 隕石