東ローマ帝国
東ローマ帝国(ひがしローマていこく)は、ビザンティン帝国・ビザンツ帝国・中世ローマ帝国ともいい、395年に東西に分裂したローマ帝国の東方地域を継承し、1453年までの1000年以上に渡って存続した帝国。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ・イスタンブール)。先に挙げた呼び方はすべて後世に付けられた通称であり、正式な国号はローマ帝国である。東ローマ帝国は古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承する一方で、古代ローマとは大きく違う点があった。元の古代ローマ帝国の領土のうち、ギリシアやヘレニズム時代にギリシア系の王国が栄えていた地域を中心としたために、段々ギリシア文化の影響が強まり、住民の多くもギリシア人となったため、7世紀には公用語もラテン語からギリシア語へと変わった。また、東方正教会を国教としたキリスト教帝国でもあった。このため大阪市立大学文学部教授の井上浩一氏は東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評している。
東ローマ帝国の歴史(395年-1453年)
東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域で、1000年という奇跡的なまでに長い期間、ローマ帝国としての命脈を保った。その長い歴史はおおむね3つの時代に大別される。歴代皇帝はローマ皇帝一覧を参照されたし。
前期 : ローマ帝国の再興と挫折(395年-610年頃)
ゲルマン民族の侵入等で弱体化し、476年に滅亡する西ローマ帝国とは対照的に、東ローマはゲルマン民族の侵入を退けて古代後期のローマ帝国の体制を保ち、西ローマ滅亡後は唯一のローマ帝国の正統政府として西ヨーロッパのゲルマン人諸国やローマ教皇に宗主権を認めさせた。
西ローマと違って東ローマがゲルマン民族を退けることが出来た理由はいくつかあるが、一つには小アジア・シリア・エジプトのような豊かな穀倉地帯を支配下においていたこと、小アジアのイサウリア人のようにゲルマン人に対抗しうる勇猛な民族がいたこと、首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁を築いていたこと、そして西ゴート人や東ゴート人へ貢納金を払って西方へ移動させた(これによって西ローマ側の疲弊は進んだ)こと等が挙げられる。
名君アナスタシウス1世の下で徐々に力を蓄えた東ローマ帝国は、6世紀の皇帝ユスティニアヌス1世(大帝)の時代になると旧西ローマ帝国領のイタリア・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、地中海沿岸全域を再びローマ帝国領にすることに成功。またローマ法の集大成である『ローマ法大全』の編纂やハギア・ソフィア大聖堂の建設など、後世に残る大事業を成し遂げた。
しかし、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊。ユスティニアヌス1世の没後はササン朝ペルシャ帝国との抗争やアヴァール人・スラヴ人・ランゴバルト人などの侵入に悩まされることになった。7世紀になるとササン朝ペルシャ帝国にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるという事態にまで陥ってしまったのである。
中期 : 「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」(610年頃-1204年)
滅亡の危機と帝国の変質 (7世紀~8世紀)
混乱の中即位した皇帝ヘラクレイオス(在位 : 610年-641年)は、シリア・エジプトへ侵攻したササン朝ペルシャ帝国との戦いに勝利して、領土を奪回することに成功した。しかし間もなくイスラム帝国の攻撃を受けてシリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失ってしまった。655年に小アジア南岸のリュキア沖の海戦で敗れて以降は東地中海の制海権も失い、674年-678年にはイスラム海軍に連年コンスタンティノポリスを包囲されるなど、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされることになった。これは難攻不落の大城壁と秘密兵器「ギリシアの火」を用いて撃退することに成功したが、北方からブルガリア帝国などの攻撃も受けたために領土は小アジア(現在のトルコ)とバルカン半島の沿岸部に縮小してしまった。717年に即位した皇帝レオーン3世は、718年に首都を包囲したイスラム帝国軍を撃退し、以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国は存続に成功した。しかし、宗教的には726年にレオーン3世がはじめた聖像破壊運動などで、東ローマ皇帝はローマ教皇と対立しカトリック教会との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに787年、第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異はフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化し、「フォティオスの分離」などによって亀裂を深め、東西両教会は事実上分離した(東方正教会。最終的に分離したのは1054年)。
800年にはローマ教皇がフランク王カールを「ローマ皇帝」として戴冠し(カール大帝)、政治的にもかつての東西ローマ帝国は対立、古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、地中海は西欧・東ローマ・イスラムに三分された。
7世紀には公用語もラテン語からギリシア語へと変わった。こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」と称しながらもギリシア人・東方正教会・ギリシア文化を中心とした国家となった。
復活から黄金期へ(9世紀~11世紀前半)
9世紀になると国力を回復させ、バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝(867年-1057年)の時代に入ると政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域の回復を進め、東欧地域へのキリスト教の布教も積極的に行われた。また文化の面でも、文人皇帝コンスタンティノス7世の下で古代ギリシア文化の復興が進められ、後世「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれるようになった。
10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス・ヨハネス1世ツィミスケス・バシレイオス2世(ブルガロクトノス)の下では、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活。東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノポリスは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。
帝国の衰退と再興、そして挫折(11世紀後半~12世紀)
しかし、1025年にバシレイオス2世が没すると大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発して国内は混乱し、1071年にはマンツィケルトの戦いでトルコ人のセルジューク朝に敗れたために東からトルコ人が侵入、同じ頃西からノルマン人の攻撃も受けたために領土は急速に縮小し、小アジアのほぼ全域をトルコ人に奪われてしまった。1081年に即位した、大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位:1081年-1118年)は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、貴族の大土地所有・徴税権を認める代わりに軍役奉仕を義務付けるプロノイア制度を導入することで帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。また、当時地中海貿易に進出してきていたヴェネチアと貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、ローマ教皇へ援軍を要請し、トルコ人からの領土奪回を図った(これが十字軍である)。
アレクシオス1世と、その息子で名君とされるヨハネス2世コムネノス(在位:1118年-1143年)はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。
ヨハネス2世の後を継いだ息子マヌエル1世コムネノス(在位:1143年-1180年)は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して神聖ローマ帝国との外交駆け引き、イタリア遠征やシリア遠征、建築事業などに明け暮れた。しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊し、神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化。1176年には、小アジア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗し、東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。
世界帝国東ローマの崩壊 (12世紀末~13世紀初頭)
1180年にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年-1185年)は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、アンドロニコス1世に代わって帝位についたイサキオス2世アンゲロス(在位:1185年-1195年)が無能だったこともあって皇帝権力は弱体化。またブルガリア・セルビアといったスラヴ諸民族も帝国に反旗を翻して独立し、帝国は急速に衰退していった。十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネチアと帝国との軋轢も増し、1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権(小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国など)を立てて抵抗することとなった。
後期 : 斜陽の帝国(1204年-1453年)
衰亡する東ローマ帝国(1204年-1453年)
各地の亡命政権の中から、小アジアのニカイアを首都とするニカイア帝国のミカエル8世パレオロゴス(在位:1261年-1282年)が、1261年にコンスタンティノポリスを奪回して東ローマ帝国を復興させ、パレオロゴス王朝(1261年-1453年)を開いたが、かつての大帝国は甦らなかった。ミカエル8世の息子アンドロニコス2世パレオロゴス(在位:1282年-1328年)の時代以降、祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、経済もヴェネツィア・ジェノバといったイタリア諸都市に握られてしまい、まったく振るわなかった。そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・セルビア王国に、東からはトルコ人のオスマン帝国に攻撃されて領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小。14世紀後半の皇帝ヨハネス5世パレオロゴス(在位:1341年-1391年)はオスマン帝国のスルタンに臣従し、帝国はオスマン帝国の属国となってしまった。
14世紀末の皇帝マヌエル2世パレオロゴス(在位:1391年-1425年)は、窮状を打開しようとフランスやイングランドまで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子ヨハネス8世パレオロゴス(在位:1425年-1448年)とコンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1429年-1453年)は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、いずれも失敗に終わった。
この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれた。この「パレオロゴス朝ルネサンス」は、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられルネサンスに多大な影響を与えた。
東ローマ帝国の滅亡(1453年)
1453年4月、ついにオスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲した。東ローマ側は守備兵7千という圧倒的に不利な状況な中、2ヶ月近くにわたって抵抗を続けたが、5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落。皇帝コンスタンティノス11世は戦死し、これによって古代以来続いて来たローマ帝国は完全に滅亡した。
東ローマ帝国のイデオロギーと政治体制
東ローマ帝国は自らを単に「ローマ帝国」と称していた。そして、「ローマ帝国」は「文明世界全てを支配する帝国」であり「キリストによる最後の審判まで続く、地上最後の帝国」だと考えられていた。東ローマ帝国は、古代ローマ時代後期以降の皇帝による専制君主制を受け継いだ。皇帝は「元老院・市民・軍隊」によって推戴された「地上における神の代理人」だとされ、政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていた。しかし、皇帝の地位自体は不安定で(血統ではなく、「元老院・市民・軍隊の推戴」が皇帝即位の条件だったため)、たびたびクーデターが起きた。それは時として国政の混乱を招いたが、一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような(6世紀のユスティニアヌス1世や9世紀のバシレイオス1世など)、活力ある社会を産むことになった。このような社会の流動性は、11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、アレクシオス1世コムネノス以降は皇帝は大貴族の長という立場となり、皇帝の権限も相対的に低下していった。
また東ローマ帝国の大きな特徴として、宦官の役割が非常に大きく、コンスタンティノープル総主教などの高位聖職者や高級官僚として活躍したものが多かった。また、9世紀末のコンスタンティノープル総主教で当時の大知識人でもあった聖フォティオスのように高級官僚が直接総主教へ任命されることがあるなど、知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である。
地方では、初期は古代ローマ後期の属州制のもと、行政権と軍事権が分けられた体制が取られていたが、中期になるとイスラムやブルガリアの攻撃に対して迅速に防衛体制を整えるために地方軍の長官がその地域の行政権を握るテマ(軍管区)制度と呼ばれる体制になった。
このテマ制度は、農民が兵士として国土防衛の任務に当たると言う兵農一致の体制でもあり、国土防衛に士気の高い兵力をすばやく動員することが出来た。
しかし、9世紀以降の帝国の繁栄の時代に農民間の貧富の差が拡大し、一方では軍務を果たせない農民が大量に増え、一方で富裕な農民や高級官僚、軍の幹部、テマの長官などはだんだん私兵を抱える大土地所有貴族と化していった。
後期に入ると地方は大土地所有貴族の手に握られるようになった。
東ローマ帝国の住民
東ローマ帝国の住民の中心はギリシア人であったが、12世紀までの東ローマ帝国はセルビア・ブルガリアといったスラヴ諸民族やアルメニア人などを支配する多民族国家であった。特にアルメニア人は帝国の支配層にかなり多数の人材を輩出し、コンスタンティノポリス総主教や帝国軍総司令官、さらには皇帝になった者までいる(7世紀のヘラクレイオス王朝や、9-11世紀の黄金時代を現出したマケドニア王朝はアルメニア系の王朝である)。
なお、帝国の住民はギリシア人であろうがアルメニア系であろうが自らを「ローマ人(ギリシア語で「ロマイオイ」)」と称していた。東方正教を信仰し、コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者は「ローマ帝国民=ローマ人」だったのである。
東ローマ帝国の文化など
文化
東ローマ帝国は、古代ギリシア・ローマの文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化を発展させた。
文学など
古代ギリシアの古典作品が尊重されており、官僚・知識人の間ではホメロスの詩が暗誦できるのが常識とされていた。古代ギリシア・ローマの古典作品の大半は、ギリシア人が主役であったこの帝国の下で伝えられてきたものであり、それらの写本が帝国滅亡後にイタリア等へ伝えられてルネサンスに大きな影響を与え、結果として現代まで古代ギリシア・ローマの古典作品が残されることになった。ただし、東ローマ帝国の人々は古代の文化を保存・継承することに重きを置いており、新しいものを創造しようという意識が乏しかったという面も否定はできない。
例えば、歴史書はヘロドトスの『歴史』などの古代ギリシア作品の形式に倣って書かれた。著名なのは『テオファネス年代記』、11世紀に宮廷で権力を振るった官僚ミカエル・プセルロスの『年代記』、12世紀の皇帝アレクシオス1世コムネノスの娘アンナ・コムネナの『アレクシオス1世伝』などがある。これらの歴史書や神学書等は、いずれも古典ギリシア語で書かれ、さらにはロシア人やトルコ人といった周辺諸民族を、あえて古代にその地にいた「スキタイ人」・「ペルシア人」と表記するなど、東ローマの知識人の古典趣味は徹底したものであった。
その他の文学作品としては、叙事詩や宗教詩・宗教音楽、小説、哲学書などがある。これらも古代の詩や音階、プラトンやアリストテレスの哲学書に倣って書かれ、中には最近まで古代の作品だと思われていた程のものまであるが、古典ギリシア語ではなく、当時の民衆の言葉で書かれた詩や小説も少数では有るが存在する。
美術
美術の分野では非常に優れたモザイク画を生んだ。宗教画は、様式化され写実的な描写に乏しいとされるものが多い(神の世界の不変性を描くため、また偶像崇拝という批判を避けるため、あえて写実的なスタイルをとらなかった)が、末期になると古代ギリシア文化の復興を受けて写実的なフレスコ画なども多く描かれた。これらの「ビザンティン美術」と呼ばれる独特の宗教美術や、ドームを特徴とする建築様式は、いまでも正教圏各国に受け継がれている。また、かつては宮殿に皇帝の戦勝などを描いたモザイク画が描かれていたが、宮殿は帝国滅亡後に破壊されてしまったために、現在ではコンスタンティノポリスの大宮殿の床を飾っていたモザイク画の一部が残っているに過ぎない(イスタンブールのモザイク博物館で見ることが出来る)。これらは宗教画と違って、古代ギリシア以来の写実的な技法で描かれている。
宗教
帝国の国教であった東方正教会はセルビア・ブルガリア・ロシアといった東欧の国々に広まり、今でも一億人以上の信徒を持つ一大宗派を形成している。詳しくは東方正教会を参照のこと。 ビザンツ帝国は皇帝教皇主義(チェザロパピズモ)と呼ばれるシステムをとっていた。これは、西ヨーロッパにおいては神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」がいたのに対し、ビザンツでは皇帝が教皇を兼ねており、ビザンツ皇帝は「地上における神の代理人」であった。
法律
ユスティニアヌス1世によって古代ローマ時代の法律の集大成である『ローマ法大全』が編纂され、その後もローマ法が幾多の改訂を経ながらも用いられた。この『ローマ法大全』は西欧諸国の法律、特に民法にも多大な影響を与え、その影響は日本にまで及んでいる。
東ローマ帝国の経済
東ローマでは西欧とは違って古代以来の貨幣経済制度が機能し続けた。帝国発行のノミスマ金貨は11世紀前半まで高い純度を保ち、後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通した。国内の産業、ことに首都コンスタンティノポリスでは一部産業を除いて業種ごとに組合を通じて国家による保護と統制が行き届き、国営工場で独占的に製造された絹織物や、貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、コンスタンティノポリスは「世界の富の三分の二が集まるところ」と言われるほど繁栄した。
しかし12世紀以降は北イタリア諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、海軍力提供への見返りとして行った北イタリア諸都市への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、衰退の一途をたどった。
主要産業の農業は、古代ギリシア・ローマ以来の地中海農法が行われ、あまり技術の進歩が無かった。それでも古代から中世初期には西欧に比べて進歩した(というより西欧の技術が後退した)農業技術を持っていたが、12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され、農地の大開墾が行われるようになると東ローマの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった(これが12世紀以降西欧やイスラム勢力のよる東西からの圧迫に東ローマ帝国が耐え切れずに崩壊してしまった、一つの原因ではないかとも言われている)。しかしながら、ローマ時代に書かれた農業書を伝えることで、ヨーロッパの農業の発展に影響を与えている。
ビザンティン帝国・ビザンツ帝国などの呼称について
しばしば、この帝国は「東ローマ帝国」「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」のいずれが正しい呼び方なのか、という議論がある。しかし前述のように、この帝国の正式国号は「ローマ帝国」であり、当の帝国政府や住民は他の呼び方をしたことはない。「ビザンティン帝国」は英語の形容詞Byzantineに、「ビザンツ」はドイツ語の名詞Byzanz(ただし正確なドイツ語の読み方だと、「ビュツァンツ」)によるもので、いずれも首都コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来している。おおむね歴史学では「ビザンツ」が、美術などの分野では「ビザンティン」が使われることが多いが、どちらも正式名称ではない以上、どちらが正しい呼び方、というのはないというのが正解であろう。
また、これらの呼び方には、東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた記憶のある西欧側が、東ローマ帝国が古代ローマ帝国の後継者であることを否定せんがために付けた蔑称ではないか、と言う意見もあり、一橋大学名誉教授の渡辺金一氏などは「中世ローマ帝国」という呼び方をしている。
関連項目
ローマ帝国 コンスタンティノポリス 東方正教会 コンスタンティノープル総主教庁 コンスタンティノープルの陥落 ブルガリア帝国 ラテン帝国 ニカイア帝国 トレビゾンド帝国 エピロス専制侯国 ローマ皇帝一覧 ローマ法大全 ギリシア火薬 アヤソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂) ヘラクレイオス王朝 マケドニア王朝 パレオロゴス王朝 十字軍
主な日本語の参考文献
井上浩一著『生き残った帝国ビザンティン』(講談社現代新書) 井上浩一・粟生沢猛夫著『世界の歴史 第11巻 ビザンツとスラヴ』(中央公論社) 井上浩一箸『ビザンツ帝国』(岩波書店) 井上浩一著『ビザンツ皇妃列伝』(筑摩書房) 尚樹啓太郎著『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会) 尚樹啓太郎著『コンスタンティノープルを歩く』(東海大学出版会) 根津由喜夫著『ビザンツ 幻想の世界帝国』(講談社選書メチエ) 益田朋幸著『世界歴史の旅 ビザンティン』(山川出版社) ポール・ルメルル著 西村六郎訳『ビザンツ帝国史』(白水社 文庫クセジュ) ミシェル・カプラン著、井上浩一訳・監修『黄金のビザンティン帝国』(創元社) エドワード・ギボン著・中野好夫ほか訳『ローマ帝国衰亡史(全11巻)』(筑摩書房) 渡辺金一著『中世ローマ帝国』(岩波新書)
外部リンク
日本ビザンツ学会 劇場国家 ビザンツ帝国(井上浩一・大阪市立大学文学部教授の講義録) ビザンティン帝国同好会(国内最大級のアマチュアファンサイト) Byzantine study on the Internet(英語のアマチュアサイト) Byzantine Studies(ダンバートン・オークス・ビザンティン研究所のサイト。英語)