東トルキスタン共和国
東トルキスタン共和国(Shärqiy Turkistan Jumuhuriyiti)は、20世紀前半に当時は中華民国の新疆省であった中央アジアの東トルキスタン地方において、二度にわたって樹立されたテュルク系ムスリム(イスラム教徒)の独立政権である。
第一次(1933年-1934年)
1930年代始めにウイグル人が主体となって東トルキスタンを支配していた新疆省政府に対する現地のムスリムの独立運動を糾合すべく建設された政権である。
1931年にハミ、1932年にトゥルファンで、当時新疆に進出してきた甘粛省のムスリム(回族)軍閥の馬仲英に触発された反乱が起こったのをきっかけとする。回族軍の侵入を受けなかったタリム盆地南部のホータンでも1933年初頭に宗教指導者をリーダーとする反乱が起こった。ホータンの反乱軍は漢族の官吏を追放してホータンを支配すると、西のヤルカンド・カシュガルへ進軍し、ハミ、トゥルファンから逃亡してきた者を糾合して11月に東トルキスタン・イスラム共和国の建国を宣言したが、イギリス、トルコなどの諸外国の承認を得ることができなかった。一方、トゥルファンを占拠する馬仲英に脅かされるウルムチの新疆省政府はソビエト連邦に介入を要請。翌1934年の初頭に新疆に入ったソ連軍によってトゥルファンを追われた馬仲英の軍は、西走してホータンに至り、東トルキスタン共和国の軍隊を壊滅させてしまった。これにより共和国政府は崩壊し、首脳は新疆省政府に降伏した。
第一次東トルキスタン共和国は宗教指導者に率いられた反乱をきっかけとするが、共和国の設立に活躍したのはロシア領の西トルキスタンで1910年代に行われたジャディード運動に影響を受けた商人・知識人層であり、20世紀初頭から始まった東トルキスタンの民族運動のひとつの結実を示す事件であった。
第二次(1944年-1946年)
第二次世界大戦期にソ連の支持を得て高揚した東トルキスタン独立運動によって、新疆省の北部に樹立された政権である。中華人民共和国では、中国革命の一貫として行われた反国民政府運動と見なされ、クルジャ・アルタイ・タルバガタイの三地区を支配したことから「三区革命」と呼ばれているが、実際には独立政権を目指していた。
1944年にイリ渓谷のクルジャ(イーニン)で蜂起した反乱軍が同年11月12日に建国した。反乱軍にはソ連軍(赤軍)が協力しており、翌年には、ソ連の支援を受けたカザフ人のゲリラ勢力を糾合し、国民政府系の新疆省政府軍を破ってアルタイ地方とタルバガタイ地方を占領した。
共和国の元になった反乱軍は親ソ連派ウイグル人のアブドゥルキリム・アバソフが指導していたが、ウイグル人だけではなく東トルキスタンのムスリムを糾合することを目指し、ソ連の支援のもとにありながら世俗的な国家を志向せずに、共和国の主席にはウズベク人の宗教指導者イルハン・トレが就任した。しかし実際には共和国はソ連の強い影響下に置かれ、親ソ連派のエフメットジャン・カスィミが次第に実権を掌握していった。
1945年、新疆省政府はソ連に和平を要請し、「独立国」東トルキスタン共和国の頭越しにソ連と国民政府の直接交渉が行われ、ソ連はイルハン・トレ主席を自国に連れ去ってしまった。この結果、東トルキスタン共和国は1946年、ソ連の意思に従って新疆省政府に合流した。東トルキスタンの独立を支持する人々は、その手続きの国際法上の正当性に問題があるとしている。
しかし、新疆省政府と東トルキスタン共和国政府が合同して成立した新疆省連合政府は1年後に崩壊し、副主席エフメットジャンをはじめとする旧共和国派はイリ地方に退去して、かつての東トルキスタン共和国の領域を再び支配しはじめた。1949年、国共内戦を制した中国共産党は、イリ政府と交渉を行うことを決め、イリの首脳陣を北京に招いた。しかし、8月27日、彼らの乗った飛行機はソ連領内で消息を断ち、首脳を失ったイリ政府は共産党に服属した。9月26日には新疆省政府も国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された。