新古典主義建築
新古典主義建築(Neoclassical Architecture)は、18世紀後期にフランスを中心に興った建築様式。当時「真の様式」と呼ばれ、啓蒙思想の観念や革命精神を背景として、古代あるいは始源の完全性を創造することを目的とした革新的な建築運動であった。イギリス、ドイツ諸国に波及したが、やがて19世紀の歴史主義、様式濫用の中に埋没した。新古典主義という名称は、19世紀になってから蔑称として考案された呼び方である。
概説
フランスにおける新古典主義の開花
新古典主義は18世紀中頃から急速に成熟したが、基本となる建築形態や理念は、クロード・ぺローやジャン・ルイ・ド・コルドモワといった前世紀の建築家、建築理論家たちによってすでに用意されていた。その萌芽は、1732年に設計競技が行われたパリのサン・シュルピス教会ファサードに現れている。しばしば前新古典主義と評されるこのファサードは、ジョヴァンニ・ニッコロ・セルヴァンドーニによって設計された。工事の進捗状況が遅かったため、彼は当初計画した平凡なバロック様式のデザインを変更し続け、最終的に水平と垂直のラインが強調されたギリシャ神殿を思わるファサードを完成させた。新古典主義の最初の転換点となったのは、1753年に刊行されたマルク・アントワーヌ・ロジェの著作『建築試論(Essai sur l’architecture)』である。ロジェは建築家ではなかったが、建築の原始的起原にまで遡り、最も根源的な要素である、柱(コラム)、梁(エンタブレチュア)、破風(ペディメント)で構成された要素のみが建築の超越的規範であると考えた。この試論はすぐに各国語に翻訳され、ヨーロッパの建築思想に大きな影響を与えた。
ジャック・ジェルメン・スフロは、1755年に計画されたパリのサント・ジュヌヴィエーヴ教会(現パンテオン)で、ロジェの理想を最初に実現した。スフロ自身は様式の問題よりもむしろゴシック建築などの構造的問題に関心を持っており、様式については曖昧で折衷的な部分もあったので、この建築はあまり厳格ではない。しかし、その構成要素は明らかにロジェの思想に沿ったものである。
新古典主義の潮流は、 マリ・ジョゼフ・ペール、シャルル・ド・ヴァイイ 、ヴィクトール・ルイ、ジャン・フランソワ・テレーズ・シャルグランらによって引き継がれた。彼らには革命的な建築運動に携わっているという自負があり、建築によって社会が完全に刷新することを信じた。なかでもジャック・フランソワ・ブロンデルの弟子、エティエンヌ・ルイ・ブーレーとクロード・ニコラ・ルドゥーは最も革新的であり、絶大な影響力を持った。
いわゆる幻視の建築家として知られるブーレーは、建築教師として活躍し、実作はパリのアレクサンドル邸のほか少数が知られるのみである。彼のデザインしたサント・ジュヌヴィエーヴを巨大化させた教会、ピラミッド型の霊廟、そしてニュートン記念堂などの巨大建築の計画案は、対称性が重視され、球体などの幾何学的マッスが強調された崇高なものであった。彼の影響は、ピエール・フランソワ・レオナール・フォンテーヌの大帝国の君主たちの記念碑や、アントワーヌ・ロラン・トマ・ヴォドワイエのコスモポリタンの家などに見ることができる。
ブーレーとは対象的に、ルドゥーは建築実務を好み、理想的な建築よりはむしろ実用的な建築のデザインを行った。幾何学的形態を複雑に組み合わせた彼の建築は奇妙かつ散漫であり、入市関税門、ショーの製塩工場とそこに計画された理想都市の建築(セノビ、オイケマ、墓地)、皇太子の狩猟小屋などは未熟な建築と看做されたが、彼の建築は、その用途に関係なく、全てにおいて独特の力強さを持った。
イギリスへの伝播
ブロンデルの下で建築を学んだウィリアム・チェンバーズは、イギリスの建築家としては最も早く新古典主義の様式に接し得た人物であるが、彼はこの建築様式から常に距離をおいた。新古典主義の斬新的なデザインはイギリスの建築的伝統に沿わず、折衷的な様式が好まれたからである。イギリスでは、新古典主義とはいくつかある現象のうちの一つにすぎなかった。当時最も影響力のあったロバート・アダムやジェームズ・ワイアットも、新古典主義のモティーフやパッラーディオ主義、ピクチャレスクの概念をちりばめたスタイリッシュな様式の想像に専念した。チェンバーズの弟子ジェームズ・ガンドン、トマス・クーリーらは、新古典主義の要素を比較的率直に表現したが、彼らの拠点はアイルランドであった。イングランドでは、ジェームズ・スチュアートらによる グリーク・リヴァイヴァルが興りつつあったが、ジョージ・ダンス、そしてジョン・ソーンという建築家によって、新古典主義は結局のところロマン主義的に処理された。彼らは新古典主義建築やゴシック建築など、様々な異質な要素を再構成し、独創的な空間をつくりあげた。
ドイツの新古典主義
ドイツの新古典主義は、グリーク・リヴァイヴァルによってもたらされた。ハインリッヒ・ゲンツ、カール・ゴットハルト・ラングハンス、トマス・ハリスンといったドイツ初期の新古典主義建築家たちは、おそらくジュリアン・ダヴィッド・ル・ロワの『ギリシャの最も美しい記念碑の廃墟』に魅せられ、ギリシャ・ドリス式オーダーを用いた建築を設計した。フリードリッヒ・ジリーが、ベルリンのフリードリッヒ大王記念碑の設計競技において提出した計画案もギリシャ・ドリス式オーダーを用い、荘厳なギリシャ・ドリス式神殿を思わせる。フリードリッヒの記念碑建設は、ドイツの民族意識の高揚の結果であり、いわば国家権威と新古典主義の記念的性格の結びつきを示している。小高い丘の上に立つギリシャ神殿の権威的イメージは、当時の国家権力にとって、大変魅力的なものだった。レオ・フォン・クレンツェ設計によるバイエルンのヴァルハラは、その理想的光景である。
特徴
19世紀には、新古典主義は生気のない冷徹な古代の復興と思われたが、実際には、古代建築に内在する美、すなわち真理を探究し、諸芸術の真の復活を意図した躍動的な運動であった。この建築様式を支えたのは、啓蒙思想家たちによる合理的思索と、ロココに表現される軽薄な旧体制に対抗する道徳的観念である。
建築の合理的解釈
フランスにおける建築の合理的解釈は、ペローにおいては、遺跡の測量やルネサンスの建築論を比較して、オーダーなどの建築比例が決して宇宙的秩序を具現したものではないという見解を示し、コルドモワにおいては、ゴシック建築の構造的側面に着目し、加重を支持する垂直と水平のラインの強調という特質が、古典主義建築の文法によって説明できることを示した。すなわち、ルネサンス以降、自明的とされた前提に対して根本的な問題を提起するものであった。ロジェの『建築試論』は、これらのフランス合理主義の結節点となった。それは、「原始の小屋」という建築の根源的形態と考えられた柱、梁、破風を重視し、他の要素を付属物と見なすことであった。また、コルドモワと同じく、ゴシック建築の構造的な合理性に言及し、その手法がこれからの建築に表現されなければならないとされた。1765年に発行された『建築に関する省察』では、1:1の比例を最も美しいものと考え、正方形を最良の図形と定義している。『建築に関する省察』は、あまりにも頓狂なものと評価されたが、『建築試論』は各国で読まれ、初期の新古典主義建築は、敢えて言えば、試論を積極的に肯定するものであるか、または批判するものかのいずれかであると言い得る。
建築の構造原理は、実験と数学的計算によって求められるべきものというスフロと、経験則を重んじるピエール・パットの間で議論が交わされた。しかし、両者ともに、構造理論を説明するために用いたサンプルはゴシック建築であった。彼らや、あるいはカルロ・ロードリといった理論家たちの構造理論は、非常に重要なものであったが、ローマ建築にしろギリシャ建築にしろ、彫刻的なものだと評価した当時の建築家たちは、あまりこれらの理論を好まなかった。ところが、以降、建築の構造原理が重要さを増してくるにつれ、ゴシック建築は構造を表出した正直な建築とみなされるようになり、ゴシック・リヴァイヴァル運動の勃興の契機となった。
考古学の影響
新古典主義の目的の一つは、原始的な純粋さ、単純さへの純化的な回帰によって、真の美を表現することにあった。このため、ローマ、ギリシャ、エジプトのほか、インドや中国の建築に関する考古学的文献、実測図面が要求された。これら各地の建築物から、普遍的な建築形態を抽出しようとしたのである。包括的な建築物の資料集成は、ヨハンフィッシャー・フォン・エルラッハが1721年に刊行した『歴史的建築物の構想(Entwurff einer historischen Architektur)』が最初のものである。この著作には、世界七不思議、中国の橋や宮殿、モスクなどが描かれ、大変素晴らしいものではあったが、視覚的にははなはだ不正確なものであった。しかし、1750年代以降、特にイギリス人によって、実測図面が記載されたより正確な図版集が刊行された。ジェームズ・ドーキンスとロバート・ウッドによる『パルミラの遺跡(The Ruins of Palmyra)』(1753年)、『バールベックの遺跡(The Ruins of Baalbec)』(1757年)、ウィリアム・チェンバーズによる『中国の建築、家具、意匠、機械および道具類の意匠(Designs of Chinese Buildings, Furniture, Dresses, Machines and Utensils)』(1757年)、などである。
また、1745年に刊行されたリチャード・ポコックの『東方と他の諸国の解説(Description of the East and Some Other Countries)』を契機として、リチャード・ドルトンによる『ギリシャとエジプトの古代建築(Antiquities of Grees and Egypt)』(1752年)、ジュリアン・ダヴィッド・ル・ロワの『ギリシャの最も美しい記念碑の廃墟(Les Ruins des plus beaux monuments de la Grece)』(1758年)など、ギリシャ建築の詳細な図版集が発行された。なかでも最も重要なものは、ル・ロワの著作に対抗するかたちで出版されたジェームズ・スチュアートとニコラス・レヴェットによる『アテネの古代遺跡(Antiquities of Athens)』(1762年)である。遺跡の測量と記録の時期、そしてその正確さにおいてもル・ロワに先んじた著作で、グリーク・リヴァイヴァルの流行に寄与した。
建築美の相対化
18世紀のギリシャ建築の発見は、それまでごく一部の人々にしか知られていなかったローマよりも古い建築物をヨーロッパにもたらした。よりプリミティブな建築はローマ建築かギリシャ建築か、といった問題に関して、『ローマの建築と壮麗について(Della Mgnificenza ed Arcitettura de’ Romani)』(1760年)を出版したジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージやウィリアム・チェンバーズ、ジェームズ・ペインらのローマ建築擁護派と、トーマス・ブラックウェル、ル・ロワ、ジェームズ・スチュアートたちギリシャ建築擁護派との間で激論が交わされた。この論争によって、ギリシャ建築に評価が与えられた結果、グリーク・リヴァイヴァルというギリシャ様式の導入が保証された。18世紀、ギリシャ建築ほどのインパクトはもたらさなかったものの、エジプト、インド、そして中国建築までもが建築的思索の対象となった。しかし、各時代、各地域の建築に関する情報が集積され、研究されるに従って、ルネサンス以降信じられたオーダーに内在する絶対的な美や、古代に存在した純粋性などというものの存在はむしろ否定され、建築美とは、恣意的で相対的なものにすぎないと考えられるようになった。
ガブリエル・ピエール・マルタン・デュモンは、『集成比較』で、ロジェの原始的小屋の構成(柱、梁、破風)が建築の規範であるとする概念を否定し、ビルディング・タイプごとに歴史上の建築を並列配置した。デザインの基本原理は単純化された幾何学、すなわち規則正しいグリット・パターンと対称性に還元された。このため、19世紀には、個々の建築に各時代の様式が恣意的に選択されるようになり、ネオ・ルネサンス、ネオ・バロック、ゴシック・リヴァイヴァルといった様式の氾濫期を迎えることになった。
しかし、最終的には新古典主義の絶対性そのものを否定したものの、建築形態の抽象化や、理念によって建築を構築といった手法は、近代建築に継承されている。
主要建築物
1756年起工・1790年完成 サント・ジュヌヴィエーヴ教会(ジャック・ジェルメン・スフロ設計、パリ) 1769年起工・1776年完成 医学学校(ジェームズ・ゴンドゥアン設計、パリ) 1768年起工・1775年完成 造幣局(ジャック・ドニ・アントワーヌ設計、パリ) 1775年起工・完成 バガテル(フランソワ・ジョゼフ・ベランジェ設計、パリ) 1776年起工・1782年完成 テアトル・フランセ、後のオデオン座(シャルル・ド・ヴァイイとマリ・ジョゼフ・ペール設計、パリ) 1781年起工・1786年完成 パレ・ロワイアル(ヴィクトール・ルイ設計、パリ) 1785年起工・1789年完成 入市関税門(クロード・ニコラ・ルドゥー設計、パリ) 1806年起工・1836年完成 エトワールの凱旋門(シャルグラン設計、パリ) 1806年起工・1826年完成 マドレーヌ寺院(ピエール・ヴィーニョン、パリ) 1808年起工・完成 証券取引所(ブロンニャール設計、パリ)