推古天皇
推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、 在位:崇峻天皇5年(592年)12月8日 - 推古天皇36年(628年)3月7日)は、飛鳥時代の女帝。第33代の天皇。諱は額田部(ぬかたべ)皇女。和風謚号は豊御食炊屋姫(とよみけかしきひめ)尊。第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。『日本書紀』に「姿色端麗・進止軌制」と記される。
欽明天皇三十二年(571年)、十八歳で異母兄・渟中倉太珠敷皇子(第30代敏達天皇)の妃となる。敏達天皇五年(576年)三月、皇后広姫の逝去を承け、皇后に立てられる。菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子妃)ら二男五女を儲けた。敏達十四年(585年)、夫が没した際、殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたが、逆の方は殺されるはめとなった。
その後、用明天皇が二年ほど皇位に在ったが、その病没後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで敏達皇太后が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという。しかし、五年後には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に彼女は三十九歳で、史上初の女帝となった(ただし、神功皇后と飯豊皇女を歴代から除外した場合)。
翌年(593年)4月10日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。
推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかった。ずっと後のことではあるが、推古天皇三十二年(624年)、馬子が葛城県の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世の人には私が愚かな女だといわれ、一方であなたも、不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶したという。
このように、公正な女帝の治世のもと、聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(603年)・憲法十七条(604年)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。推古十五年(607年)、小野妹子を隋に派遣し、翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古二年に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。
推古二十八年(620年)、聖徳太子と馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上したが、二年後には太子が四十九歳で薨去し、四年後、蘇我馬子も亡くなった。長年国政を任せてきた重臣を次々に失った女帝の心境は、老いが深まるにつれ寂寥なものであったに違いない。
推古三十六年(628年)3月7日、女帝は75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようである。
その年の9月20日に喪礼が執り行われ、遺令によって女帝の亡骸は息子・竹田皇子が眠る墓に合葬された。その所在は奈良県明日香村五条野の植山古墳とされている。後年、時期は不明ながら、大阪府南河内郡太子町山田にある河内国磯長山田陵に改葬された。
|
先代: 崇峻天皇 | 天皇の一覧 |
次代: 舒明天皇 |