正岡子規
正岡子規(まさおかしき 慶応33年9月17日(1867年10月14日)- 明治35年(1902年)9月19日)
伊予松山(現・愛媛県松山市)出身の俳人、歌人。 本名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改める。
辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」より、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」ともいう。また、「獺祭忌」ということもある。
概論
東京大学を中退し、新聞「日本」に入社して『獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)』を連載し、俳句の革新運動を開始する。後に俳句雑誌「ホトトギス」を創刊して、根岸短歌会を主催して俳句の世界に大きく貢献した。日清戦争にも従軍。 また、短歌においても『歌よみに与ふる書』を新聞「日本」に連載し、形式にとらわれた和歌を非難、革新につとめた。
子規と野球
子規は、日本に野球が導入された最初の頃の熱心なプレーヤーでもあり、自身の幼名である「升(のぼる)」にひっかけて、ベースボールを「野球(=のぼーる)」と訳したことでも有名。また、「まり投げて見たき広場や春の草」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。これらのことが評価され、正岡子規は2002年野球殿堂入りを果たした。ポジションはキャッチャーであった。
雅号
雅号の子規とはホトトギスの異称で、結核を病み吐血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。また別号として、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(おち ところのすけ)なども用いた。「獺祭書屋主人」の「獺」とは川獺(かわうそ)のことである。川獺は巣に魚を集めて貯蔵する習性がある。これを、魚を祭っているようだということで「獺祭」と言い、転じて「散らかっている様」の意味となった。「獺祭書屋」とは書物が散らかった部屋のことで、子規が自らの部屋を謙遜して呼んだものである。
代表句
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 春や昔十五万石の城下哉 鶏頭の十四五本もありぬべし