文化大革命
文化大革命は、中華人民共和国で1966年から起きた政治・社会・思想文化の全般にわたる運動。毛沢東の支持を得て遂行され独自の社会主義国家の建設を目指したが単なる権力闘争へと変質し、毛の死と共に終了した。初め林彪が主導、1971年の林彪事件後は王洪文・張春橋・江青・姚文元ら四人組に率いられて中国共産党指導部を初めとする国内のあらゆる機構から実権派が排除された。期間中多くの知識人・官僚らが追放または投獄され、文化財も多数破壊された。中華人民共和国での思想統制は1950年代にすでに始まっていたが、60年代前半の中ソ論争により中国国内で修正主義批判が盛んになり、これが文化大革命の伏線となった。1966年5月16日の「通知」(5・16通知)や同年8月の中共8期11中全会(中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議)での「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」(16か条)で文化大革命の定義が明らかにされた。8期11中全会以後、中国共産党中央は麻痺し、陳伯達・江青らの文化革命小組がそれに代わった。文化大革命について最もはっきり述べているのは1969年4月の第9回党大会における林彪の政治報告である。
その報告には「党内の資本主義の道を歩む実権派は中央でブルジョワ司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とを持ち、各省市自治区および中央の各部門に代理人を抱えている。(中略)実権派の奪い取っている権力を奪い返すには文化大革命を実行して公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ上述の暗黒面をあばき出すより他ない。これは実質的にはひとつの階級がもうひとつの階級をくつがえす政治大革命であり、今後とも何度も行われねばならない」と書かれており、林彪は文化大革命を、国内の反動的勢力に対する新たな階級闘争としてとらえていたことがわかる。
毛沢東はいまだ人民の間では絶対的な人気を保ち、個人崇拝も始まっていたが、人民公社や大躍進政策の失敗によって既に指導部内では実権を失っていた。文化大革命とは、毛沢東の権威を利用した林彪による権力闘争の色合いが強いが、毛沢東自身が仕掛けた、実権派に対する奪権闘争という側面もある。特に江青をはじめとする四人組は毛沢東の腹心とも言うべき存在であり、四人組は実は毛沢東を含めた五人組であったとする見方もある。原理主義的な毛沢東思想を信奉する学生たちは1966年5月以降紅衛兵と呼ばれる団体を結成し、特に10代の少年少女が続々と加入して拡大を続けた。
実権派と目された鄧小平や劉少奇などの同調者に対しては、徹底的な中傷キャンペーンが行われた。批判の対象とされた人々には自己批判が強要され、批闘大会と呼ばれるつるしあげが日常的に行われた。
また極端なマルクス主義に基づいて宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特に
チベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。
文化大革命は大きく三段階に分けられる。第一段階は1966年5月の紅衛兵結成から1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言するまで。第二段階は1973年8月の第10回党大会における林彪墜死事件の総括まで。第三段階は毛沢東の死の直後、即ち1976年10月6日の四人組逮捕までである。
期間については、林彪・四人組ら文革派は1969年の文革呼号の成功までが文化大革命であり、その後は文革路線を維持する継続革命段階に入ったとしているが、一般には周恩来を標的として1976年まで続いた批林批孔運動の時期も含める。
1977年8月に中国共産党は、66年以来11年にわたった文革の終結を宣言した。1981年には四人組と林彪グループに対し、死刑から懲役刑の判決が下された。 1981年6月に中共11期6中全会で採択された「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」では、文化大革命は「指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱である」ことを認めている。 ただし、中国共産党は、文化大革命への影響力が大きかった毛沢東自身に対しての批判は、現在でも差し控える傾向が見られる。
文化大革命期間中の中国では大学が72年頃まで閉鎖され、再開後も入学試験はおこなわれず、青年は農村に下放されたため専門知識を持つ人材の育成は大きく遅れた。 また、ソ連など国交がある国の多くとも関係が断絶し、交流があった国はアルバニアなど数カ国に過ぎず、10年以上の実質的な鎖国状態を招いたため、中国の文化・経済の近代化は大きく遅れることになった。
関連項目
四五天安門事件 (第一次天安門事件)
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