森喜朗
森 喜朗(もり よしろう、1937年7月14日 - )は、日本の政治家、衆議院議員、第85、86代内閣総理大臣。清和政策研究会会長。
| 生年月日 | 1937年7月14日 |
| 出身地 | 石川県能美郡根上町生まれ (中学、高校は金沢市) |
| 最終学歴 | 早稲田大学第二商学部 |
| 前職 | サンケイ新聞東京本社社員 (衆)今松治郎秘書 |
| 役職 | 文部大臣(中曽根内閣) 通商産業大臣(宮沢内閣) 建設大臣(村山内閣) 元・内閣総理大臣 |
| 当選回数 | 12回 |
| 世襲の有無 | 世襲ではない(父は町長) |
| 選挙区 | 石川22区 |
| 所属党派 | 自由民主党 |
| 党の役職 | - |
| 会館号室 | 衆・第二議員会館309号室 |
| ウェブサイト | http://www.mori-yoshiro.com/ |
2000年(平成12年)、急逝した小渕恵三の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。 このときの連立与党は自民党、公明党、保守党であり、メディア等では「自公保」と略称した。
就任には、当時の自民党の有力議員五人組(森喜朗本人、青木幹雄、村上正邦、野中広務、亀井静香)が密室で談合して決めたのではないかとの疑惑、「日本の国は、まさに天皇を中心としている神の国である」といういわゆる神の国発言に代表される失言や、ゴルフ中にえひめ丸沈没事故の一報が入った際にもプレーを中断しなかったと言われる初動体制のまずさで、国民の強い批判を浴びた。任期の終わりごろには、任期中を通じて低かった支持率が5.7%となった。
その一方でアフリカ諸国に対し積極的な外交交渉を行い、国際連合内での発言力向上に貢献した。また、IT革命を謳いインターネット博覧会(インパク)の開催などの振興策を推進した。
2000年11月21日には、衆議院本会議において加藤紘一が党の方針に反して本会議を欠席する、いわゆる「加藤の乱」が起こった。
略歴
1937年(昭和12年) 石川県根上町に生まれる。 1956年(昭和31年) 石川県立金沢二水高校卒業 1960年(昭和35年) 早稲田大学第二商学部卒業 1969年(昭和44年)12月 衆議院選挙に無所属で出馬、初当選。 1973年(昭和48年) 青嵐会加盟 1983年(昭和58年) 文部大臣就任 1992年(平成4年) 通産大臣就任 1995年(平成7年) 建設大臣就任 2000年(平成12年) 自民党総裁・内閣総理大臣就任 2001年(平成13年) 内閣総理大臣辞任
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