満州事変
満州事変(まんしゅうじへん)は、中国東北部における関東軍(日本軍) の軍事行動に端を発する国家間紛争である。中国東北部を満州と呼ぶことから、こう呼称する。
日本による具体的な中国侵略行動の始まりでもあり、これを境に中国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が激化していく。(しかしながら、中国から満州へ流出する人々が極めて多数出てきており、それをもって抗日運動は小規模かつ限定的であったとする説もある。)日本軍部は発言力を強め、日中戦争への軌道が確定した。これをもって、いわゆる十五年戦争の始まりとする説があるが、満州事変(1931年~)は塘沽協定(1933年)で終了し、日華事変(1937年~)とは別々の戦争であり、これを纏めてしまうのは非合理的だとする意見もある。
満州事変までの経緯
1904年、日本は日露戦争で勝利し、旅順、大連の租借権と長春~旅順間の鉄道及び支線や付属設備の権利・財産を清国政府の承諾を以って日本政府に移転譲渡する日露講和条約が締結された。これをもって南満州鉄道会社を創立し、その警備を関東軍が当たることになる。当初、地元の軍閥長である張作霖とも友好関係を築いていたが、張作霖が中国共産党へ接近し始めると、関東軍は満州某重大事件を起こした。満州某重大事件は国際的に不問となったが、張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本に対する敵対的な行動を取るようになり、南満州鉄道のすぐ横に新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満州鉄道を経営危機の至らしめた。これに危機感を感じた関東軍は再三に渡り抗議するが聞き入れられず、石原莞爾(いしはら かんじ)、板垣征四郎の指導のもと、満州事変を決意する。
柳条湖事件
柳条湖事件は、満州事変の発端となった事件である。1931年9月18日の夜22時過ぎ、奉天(現在の中国遼寧省瀋陽 (Shenyang))北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道(満鉄)線路上で爆発が起き、線路が破壊される事件があった。駐留していた日本の関東軍はこれを中国側の張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中国東北地方の占領行動に移った。
柳条湖近くには中国軍の兵営「北大営」があり、関東軍は爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺、その後北大営を占拠。翌日までに奉天、長春、営口の各都市も占領した。
実際には、爆破は関東軍の虎石台(こせきだい)独立守備隊の一小隊が行ったものであり、つまり関東軍の自作自演であったと、後に満洲事変勃発時少佐で関東軍参謀であった花谷正が証言している。
日本では長く「柳条溝事件」と称されていたが、これは当時日本へ伝えられる際の誤りだったと近年になって判った。現場の地名は「柳条湖」である。
中国では「9・18事変」(九、一八事変)と呼ばれる。日中戦争に関しても、抗日運動の始まりという観点からこの柳条湖事件を発端とする主張が有力という。
関東軍の独断
日本政府は事件の翌日に緊急閣議を開いた。南次郎陸軍大臣はこれを関東軍の自衛行為と強調したが、幣原喜重郎外務大臣は関東軍の謀略なのではと疑惑を表明、外交活動による解決を図ろうとした。そして9月24日、閣議では「事態をこれ以上拡大しない方針」が決定した。ところが、関東軍は政府の決定を無視して、自衛のためと称して戦線を拡大していった。
錦州爆撃
1931年10月8日、奉天を放棄した張学良が拠点を移していた錦州を関東軍の爆撃機12機が空襲した。南次郎陸軍大臣は若槻礼次郎首相に「中国軍の対空砲火を受けたため、止むを得ず取った自衛行為」と報告したが、関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を集結させており、放置すれば日本の権益が侵害される恐れが強い。満蒙問題を速やかに解決するため、錦州政権を駆逐する必要がある」と公式発表した。これによって幣原の国際協調主義外交は決定的ダメージを受けることになる。
桜会クーデター未遂 (十月事件)
満州事変と呼応して桜会のメンバーで、参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎中佐らが軍事政権樹立を目指してクーデターを計画した。これには大川周明や北側一輝らも外部から関与していた。具体的には10月21日に桜会の将校を動員、これに近衛歩兵中隊10個、機関銃中隊1個、海軍爆撃機13機、海軍将校などをつけて首相官邸や、陸運省、参謀本部、警視庁を襲撃して、満州事変の不拡大方針を唱えていた若槻礼次郎首相や幣原喜重郎外相を惨殺、そして東郷平八郎と閑院宮の応援を得て荒木貞夫を首班とする内閣樹立を目指すというものであったが、事前に情報がもれ、[[10月17日]に12人の将校が検挙されて未遂に終わった。しかし、これが政府に対する恫喝として作用して不拡大方針は崩れていき、また軍部や右翼でも力づくで政権奪取しようという気運を高まった。
溥儀擁立
国際世論の批判から、関東軍は満州全土の武力占領ではなく傀儡政権の樹立を目論み、特務機関長であった土肥原健二大佐が満州民族である清朝最後の皇帝宣統帝溥儀の説得にかかった。清朝復興を条件に同意した溥儀は11月10日、天津の自宅を出て11月13日に営口に到着、旅順の日本軍の元にとどまった。
スティムソン・ドクトリン
アメリカの国務長官スティムソンは、1932年1月7日に、日本の満州侵略による中国の領土・行政の侵害と、パリ不戦条約に違反する一切の取り決めを認めないという、いわゆるスティムソン・ドクトリンを発表し、日本と中国に向けて通行した。中国はもちろん、イギリスなどヨーロッパ諸国も消極的ながら 賛成したが、日本は認識不足だとして拒絶した。
上海市街戦
詳しくは上海事変を見よ
満州国の建国
国首にあたる執政には溥儀、首都は新京(現在の長春)、元号は大同とされた。これらの発表は東北行政委員会委員長張景恵の公館において行われた。
3月9日には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。
犬養毅内閣は3月12日、「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定。日本政府は関東軍の独断行動に引きづられる結果となった。
1932年9月15日には日本と満州国の間で「日満議定書」が締結され、日本の既得権益の承認と、関東軍の駐留が認められた。
満州国についての詳細は満州国も参照
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