湾岸戦争
湾岸戦争(わんがんせんそう)は、1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻したのを機に、アメリカ合衆国が中心となり、国連で多国籍軍の派遣を決定し、1991年1月17日に空爆した事にはじまる戦争。イラクのクウェートへの侵攻から湾岸戦争の開始ととらえることもある。
CNNなどで初めてリアルタイムで戦争が伝えられ、その映像から日本メーカーの任天堂を捩った「Nintendo War」と呼ばれた。
開戦までの経緯
1988年8月20日にイラン・イラク戦争が一応の停戦を迎えた。この戦争の結果、イラクは膨大な戦時債務を抱えることとなりその後経済の回復も遅れていたものの、軍事力はイスラエルをのぞいた中東では最大でありつづけた。このような中で、サウジアラビア、クウェートがOPECの割当量を超えた石油の増産を行なったことにより、石油価格は大きく下がり、石油輸出に依存していたイラク経済にさらなる打撃を与えていた。
その上で行なわれたルメイラ油田(イラクが領有を宣言)からのクウェートの大量採掘に対してついにイラク軍は1990年8月2日クウェートに侵攻し、奇襲のもと制圧した。
これに対し同日中に国連安全保障理事会は即時無条件撤退要求を決議、さらに8月6日には全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁も決議した。しかしイラクは国連の決議を無視して8月8日にクウェートがイラク第19番目の州であると併合を宣言。また、8月18日には一般外国人を人質にすると国際社会に発表した(のちに人質は各国からの働きかけで12月に全員解放された)。その後もイラクはクウェートの制圧を止めず、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日に翌年1月15日を撤退期限とした「対イラク武力行使容認決議」を国連は決議した。
しかし、フランス等の反対もあり、国連軍の派遣は出来ないため、アメリカは有志を募るという形での多国籍軍での攻撃を決めた。アラブ各国もこれに続いた。
開戦後の経緯
1月17日に多国籍軍によるイラクへの爆撃が開始。これを受けイラク軍はイスラエルへ向けスカッド・ミサイルを発射し報復した。この攻撃は「アラブ(イスラーム)対イスラエルとその支持者(ユダヤ・キリスト教)」の構図を築こうとする意図があったがイスラエルは動かず、「不法な侵略者 : イラク対国際社会」の構図は揺らがなかった。その後2月24日には多国籍軍は地上戦に突入し、その100時間後にはイラク軍は撤退し、2月27日にクウェート市を解放、米国大統領が停戦を発表しイラク政府は敗戦を認めた。
この戦闘において、多国籍軍は劣化ウラン弾を使用した。この兵器による悪影響が戦後糾弾されるようになったがその影響については多国籍軍は否定している。また、イラクが敗戦を認めたと同時に停戦をしたため、軍の多くが温存された。
戦後
米大統領の停戦発表後の4月3日に「大量破壊兵器の廃棄」、「国境の尊重」、「抑留者の帰還」などを内容とする安保理決議687が採択された。この決議をイラクは受諾したものの、その後完全には遵守せず、長期間にわたる経済制裁を受けることとなった。
この戦争で使われた兵器
この戦争において特にアメリカは数々の新兵器を投入したため「新兵器の見本市」「兵器の実験場」などと呼ばれることもある。 劣化ウラン弾 F-117(ステルス機) パトリオットミサイル
陰謀説
この戦争についていくつかの事例から「アメリカによって仕組まれた戦争でイラクはのせられた」とする考え方がある。そのような説の根拠はおおよそ以下のようなことだが、イラクがクウェートに侵攻したのは事実であり、非難されるのはイラクの方であるという考えが一般的である。 イラクは、イラン・イラク戦争でイスラム革命からアラブ君主国家を守ったと自負していたが、クウェートが戦時債務の即時返済を要求。それをイラクが断るとイラク・クウェートの国境地帯にあるルメイラ油田から大量採掘を開始。 90年7月25日にイラクがクウェートの併合を示唆した際、アメリカの駐イラク大使エイプリル・グラスピーは「国境問題に介入するつもりはない」と発言。 - NEW YORK TIMES誌の関連項目 http://www.chss.montclair.edu/english/furr/glaspie.html 90年7月31日のイラク・クウェートによるジッダ会談において、クウェート側がフセイン大統領が私生児であることを揶揄するなど侮辱的な態度を取った。