満州民族
満州(満洲。まんしゅう)民族は、現在の中華人民共和国東北地区(遼寧省・吉林省・黒龍江省)に発祥したツングース系民族。女真の後身で、17世紀に現在の中国・モンゴルの全土を支配する清を興した。
「満州」の漢字は満州語の民族名Manju(マンジュ)の当て字で、元来は「満洲」と表記されていたが、日本では一般に常用漢字をもって「満州」と表記する。
満州民族の起こった地域は、西欧では満州民族の土地という意味でマンチュリアと呼ばれ、漢語ではこれに対応して満州と呼ばれる。このため、とくに民族のことを指す場合は、満州民族・満州族・満州人などと表記する。
現代の中華人民共和国では、55少数民族のひとつとなり、満族(măn zú)と呼ばれている。満族の民族籍を持つ人々の人口は約一千万人である。
満州民族の起源
満州民族の前身は、12世紀に中国の北半分を支配した金を立てた女真民族であり、女真以前にこの地方にいた粛慎、靺鞨の後裔であると考えられている。
民族名となったマンジュは、サンスクリット語のマンジュシュリー(文殊師利、文殊菩薩のこと)に由来する満州語で、元来は16世紀までに女直(女真)と呼ばれていた民族のうち、建州女直に分類される5部族(スクスフ、フネヘ、ワンギヤ、ドンゴ、ジェチェン)の総称であった。
これら諸部族がスクスフ部出身のヌルハチによって統一されると、ヌルハチの支配する国はマンジュ国(Manju gurun, 満州国)と呼ばれるようになり、さらにマンジュ国が海西女直4部、野人女直4部を併合して後金に発展したため、満州の名が広く女直全体の総称として用いられるようになった。ヌルハチは、満州語を表記するためにモンゴル文字を改良させて満州文字をつくり、満州民族文化を確立することに努めた。
ヌルハチの死後、後継者のホンタイジは女直を民族名として用いることを禁じ、「満州」(マンジュ)の民族名が定着した。
清朝時代の満州民族
ホンタイジは後金を満州・モンゴル・漢の3民族を、満州人である愛新覚羅氏の皇帝が支配する帝国に発展させ、国号を清と改めた。多民族国家である清のもとで、満州人は八旗と呼ばれる8グループに分けられた集団に編成されて、清を支える軍人・官僚を輩出する支配民族となる。
清は、1644年に明が滅びると万里の長城以南に進出して明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて中国全土を満州民族が支配する体制を築き上げた。清の歴代の皇帝は、漢民族が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満州語をはじめとする満州独自の民族文化の維持・発展に努めたが、次第に満州語は廃れ、満州人の間でも中国語が話されるようになり、習俗も中国化していった。
逆に、中国を扱った映画などの作品で見られる辮髪やチャイナドレスは元来は満州族の習俗であったものが清の時代に中国に持ち込まれたものである。
一方、満州民族の故地である中国東北地区(満州)は、皇帝の故郷として保護され、漢民族の移住は強く制限されていたが、清末には漢民族の農民が入植するようになり、漢民族人口が急増して満州民族をはじめとするツングース系諸民族は人口の上でも生活範囲の上でもまったく追いやられてしまった。
1932年には日本の手によって、清の最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を執政(のちに皇帝)として満州国が立てられるが、満州国は日本・朝鮮・満州・蒙古・支那の5民族による五族協和を理念としており、満州国の内部において自国が満州民族の国民国家として意識されていたわけではない。
現代の満州民族
第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国は、民族識別工作を行って少数民族を中国の内部で一定の権利を有する民族として公認した。この過程で、かつての旗人(八旗に所属した者)の後裔にあたる人々が満族とされる。
満族の人々の間では、現在はごく少数の老人を除いて満州語を話す者はほとんどおらず、伝統宗教のシャーマニズムの信仰もほとんど残っていない。このような状況から、満州民族を、言語的・文化的に中国社会に同化され、失われつつある先住民族であるとも見なされうるが、1980年代以降は政府の少数民族優遇政策から積極的に民族籍を満族に改めようとする動きがあって、満族の人口は10年あまりのうちに3.5倍以上に増加しており、満州語を学習しようとする機運も起こっている。
なお、現在、主に新疆ウイグル自治区に居住する少数民族のシボ族は、乾隆帝時代に当地への遠征軍に参加した満州族の末裔である。