滝川一益
滝川一益(たきがわかずます、大永5年(1525年) - 天正14年9月9日(1586年10月21日))は戦国時代の武将。信長四天王の一人。滝川一勝の子。名は「いちます」ともいわれる。出身は近江国甲賀で、最初は忍者関係の仕事をしていたという。若い頃は六角定頼に仕えていたともいう。
織田信長が尾張において次第に台頭してくると、その家臣となった。一益ははやくから信長にその才能を認められて、1567年には伊勢攻めの総大将を務め、北畠氏の攻略などに多大な功績を挙げた。これにより、信長から長島城を与えられた。
その後は1574年の伊勢長島攻めや1575年の長篠の戦い、本願寺攻めや伊賀攻めなどに参陣して功を挙げ、1582年の武田氏攻めにおいては実質的な総大将を務めて活躍し、武田氏滅亡後、信長から上野と信濃の一部を与えられ、柴田勝家や羽柴秀吉と並ぶ織田軍の方面司令官となった。しかしこのとき、一益は領地よりも、茶器を所望することを望んだという逸話がある。
1582年6月、信長が本能寺の変によって横死すると、北条氏直が上野に侵攻してきた。一益がこれを迎え撃ったが、上野を治めてまだ3ヶ月しかたっていなかったため、軍の統制がうまくいかず、大敗を喫してしまう。このため、清洲会議に出席もできずに、織田家における一益の地位は一気に急落した。
秀吉と勝家が対立すると、一益は秀吉嫌いと織田家擁護の立場から勝家に与して秀吉と戦う。しかし1583年、賤ケ岳の戦いで勝家が討たれると、秀吉に桑名城を攻撃されて降伏する。1584年、小牧・長久手の戦いには秀吉軍の一員として参陣したが、徳川家康や織田信雄の攻撃に遭って敗れた。戦後は秀吉から越前大野に3千石の捨扶持を与えられ、不遇な生涯を送ったという。
一益は武将としての能力ならば、秀吉にも劣らぬほどのものがあった。しかし、信長あっての一益だったのか、信長の死後はまるで耄碌したかのように、パッとした活躍が見られず、哀れな生涯を送っている。しかし、忍者上がりから織田家の四天王にまで上りつめたのであるから、一益も信長の実力主義の恩恵を受けた武将の一人と言えるであろう。
出身地に付いての諸説
滝川一益は近江国の甲賀(こうか)出身と言われているが、近江国の甲賀出身ではないという説がある。 もう一方の出自は「志摩国の甲賀」ではと言われている。これは、一益が仲介役となり、九鬼嘉隆を織田信長に引き合わせた際に「隣家の娘の子」と嘉隆を紹介したことに端を発する。つまり、嘉隆の母は一益の生家の隣に住んでいたことになるが、嘉隆の母は「志摩国甲賀」の出身であることは各種の記録からも明らかになっており、また一益と嘉隆の仲介役が志摩国の者であったことから言われている説である。