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憲法

憲法は、国家の基本秩序を定める根本規範。

なお、現在の日本の憲法については「日本国憲法」を参照。

憲法の概念と分類

訳語としての憲法

憲法とは、ドイツ語の「フェアファッスング」(Verfassung)、フランス語の「コンスティテュシオン」(Constitution)、英語の「コンスティテューション」(Constitution) に対する訳語である。元来日本にはこれに相当する概念がなく、もともと漢語として存在していた「憲法」という語を当てることが明治期に考案され、これが定着したものである。穂積陳重の『法窓夜話』によれば、明治6年に、箕作麟祥がフランス語の「コンスティテュシオン」に「憲法」なる訳語が当てたのが始まりという。当初は、「国憲」、「国制」、「朝綱」など、さまざまな訳語が使用されていたが、時代を経るにつれて「憲法」が支配的となった。但し、「国制」という訳語は、法史学において現在も用いられる。

もともと、フェアファッスング等の原語は、もののあり方とか状態とかを指す語であり、そこから転じて国家のあり方を示すようになった。つまり、もっとも基本的な意味は、国家のあり方という意味である。日本語の「憲法」には、「法」という概念が既にくみこまれているため、このような事実的なフェアファッスングの概念をともすれば捉えそこなうことがあるので、注意が必要である。法史学で「国制」の語を用いるのは、そのような事情を斟酌した結果であろう。なお、平成7年改正前の刑法77条(内乱罪の規定)には「朝憲」、改正後の同条には「国の統治機構」という語が用いられている。昭和10年の大審院五・一五事件判決では、朝憲紊乱とは、国家の政治的基本的組織を不法に破壊することであるとされている。

カール・シュミットの分類

憲法の概念を整理したものでもっとも有名なものは、カール・シュミットの『憲法学』(Verfassungslehre)であろう。彼は、憲法の概念を、絶対的な意味、相対的な意味、実定的な意味などに区別した。絶対的意味とは、更に細かく、1.公共体の秩序そのもの、2.国家の政治体制、3.国家の統合のあり方、4.根本規範を区別することができる。1.~3.は、上記の事実的な意味に相当する。特に、3.は、ルドルフ・スメントの統合理論に依拠した憲法概念であり、戦後の憲法学に大きな影響を与えた点で注意を要する。次に、相対的な意味とは、形式的な意味の憲法(後述)、すなわち、憲法と呼ばれる文書を指す。第三に、実定的意味の憲法とは、憲法制定権力により行われた政治的な根本決定を指す。憲法制定権力によりつくられた権力(憲法を改正する権力)は、この根本決定に反することはできない。つまり、このような根本的決定は、相対的憲法においては、改正禁止条項として現れるのである。

実質的意味と形式的意味

通常、憲法という概念により指されているのは、規範としての憲法 (Verfassungsrecht) である(事実的な意味の憲法を指す場合には、「国制」「政治体制」などという語を用いるのが一般的である)。日本で普通に行われている分類は、憲法を実質的な意味と形式的な意味に区別するものであり、ドイツの通説を受け継いだものである。実質的な意味の憲法とは、内容により憲法かそうでないかを区別するものである。すなわち、国家の根本・基盤に関する法規範は、すべて実質的意味の憲法に含まれる。これに対して、形式的意味の憲法とは、形式的な標識によって憲法かそうでないかを区別するものである。すなわち、憲法という名のある文書(憲法典)を指す。形式的意味の憲法をもつのが成文憲法の国であり、これがないのが不文憲法の国である。

両者の憲法の意味は必ずしも重なるわけではない。例えば、議会法などは、国家の根本・基盤に関する法規範であるから実質的な意味では憲法に属するが、形式的な意味では、「憲法」という名を持っていないので、憲法ではない。連合王国は「憲法」と呼ばれる文書がないから、形式的な意味では憲法が存在しないが、実質的な意味では、議会法、マグナ・カルタなどの憲法が存在するのである。

実質的意味の憲法の概念がなぜ必要かということを説明するためには、憲法学の対象は何かということを考えてみればよい。憲法学とは国家を法的に認識する学問である。このとき、「憲法」という名前がついていないという理由で、皇室典範・皇室経済法・国会法・内閣法地方自治法裁判所法国旗国歌法などを対象から外してしまったら、国家を法的に(少なくとも正確に)認識することはできなくなる。つまり、実質的意味の憲法とは、憲法学の対象を画する概念である。この結果、憲法の法源は、ひとり憲法典のみではないことになるのである。

成文憲法と不文憲法

成文憲法とは、憲法が法典化されている場合を言う。法典化されていない場合には、不文憲法という。不文憲法という用語に批判がないわけではないが、ここでは流布した用法としてこれを受け入れる。不文憲法の国として最も有名なのは、連合王国である。

立憲的意味ないし近代的意味

事実としての憲法や実質的意味の憲法は、洋の東西・時代を問わず存在するものであるが、特に西欧近代に限って現れた憲法の概念というのも存在する。これが、立憲的意味の憲法である。カール・シュミット的にいえば、理想としての憲法である。これは、権力分立や人権保障など特定の理想・価値を謳うものしか憲法として認めないという態度であり、特にフランス革命アンシャン・レジームを打倒するイデオロギーとして機能した。もともと西欧近代に特殊であるこれらの価値が、他の文化圏の西欧化によって、今日では、これらの価値はいくぶん普遍性を帯びるようになってきている。日本でも、近代化に伴い、これらの価値を明治期以来継受した。現在では、少なくとも、権力の集中よりも権力の分立が優れた統治体制であり、また、人権蹂躙よりも人権保障のほうが優れた統治体制である、という程度のコンセンサスは成立しているものと思われる(これは必ずしも当然のことではない)。しかし、全面的な西欧近代価値の受け入れには、明治期以来、批判的な見解も根強く存在し、それは、紛れもなく、法とは社会の規範意識であるという事実の表れである。

硬性憲法と軟性憲法

硬性憲法とは、憲法改正手続に通常の法改正以上に厳格な手続を要求する憲法を言う。対して、軟性憲法は、憲法改正が通常の法改正と同様の手続で行いうる憲法を言う。理論的には、通常の法改正よりも容易に変更しうる憲法という概念を想定することできるが、そのような例はいままでのところ存しない。

欽定憲法・協約憲法・民定憲法

制定の主体に着目して憲法を分類することもある。君主が制定する憲法を欽定憲法、人民が制定する憲法を民定憲法、君主と人民が協働して制定する憲法を協約憲法という。

憲法と国法

日本では憲法 (Verfassungsrecht) と呼ばれる科目であるが、ドイツでは通常国法 (Staatsrecht) と呼ばれる。国法とは、1.国家の基盤を規律する法規範、2.最高国家機関の構造と活動を規律する法規範、3.市民の国家に対する権利を規律する法規範を総称する概念である。日本の憲法学が、対象を、1.総論、2.統治機構、3.基本的人権の三つに分けて論じるのと趣を同じくしている。

憲法の法源

法源論とは、というものがどこから生じるかという話である。法文化や時代の違いによって、法源は変わる。日本人は法源というとすぐに成文法、特に国家の制定法を思い浮かべるが、これは、日本が近代的な大陸法の法文化を享受しているからである。しかし、英米法系諸国においては、いまだに判例が主たる法源であると考えられているのである。

日本国の憲法の成文法源は、第一に憲法典(日本国憲法という文書)である。しかし、実質的な意味の憲法の箇所で述べたとおり、憲法法源は憲法典に尽きるわけではない。皇室典範、皇室経済法、国事行為の臨時代行に関する法律、国会法、公職選挙法、政治資金規正法、政党助成法、内閣法、国家行政組織法、裁判所法、最高裁判所裁判官国民審査法、裁判官弾劾法、裁判官分限法、地方自治法、国家国旗法、元号法国民の祝日に関する法律、などの法律も憲法法源である。衆議院規則、参議院規則、最高裁判所規則などの自律的規範も憲法法源となる。また、日本国の領土を画定する国際条約などの国際条約(千島樺太交換条約やサンフランシスコ講和条約)も、憲法法源となる。

なお、皇室典範は、明治憲法体制においては、大日本帝国憲法と同位の法源であると考えられていたが、現在では法律と同位と考えられている。明治憲法体制においては、天皇が皇室の家法として皇室典範を制定していたのに対し(皇室自律主義)、日本国憲法においては、「国会の議決」によって制定されることとなったからである(日本国憲法2条)。条約は憲法と法律の中間位の序列を有すると考えられている。

慣習法が憲法法源となりうるかに関しては、議論がある。これを議論するには、慣習法を、1.憲法の欠缺を埋めるもの (extra constitutionem)、2.憲法の規定を具体化するもの (intra constitutionem)、3.憲法の規定に反するもの (contra constitutionem) の三種に分けなければならない。このうち、1.と2.については、憲法法源となりうるとして何の問題もない。問題は3.の反憲法的慣習法である。なぜ問題となるかというと、これは正規の憲法改正手続を潜脱するからである。この問題に関して、学説は対立している。

憲法の解釈と改正

成文法源は、慣習法と異なり、明確であり安定的であるという特長を有するが、そのために、歴史の変遷による事情の変更に、当然についていくわけではないという短所を有する。このため、成文法源については、法規範と現実の間隙を埋める作業が必要となる。それには、解釈と改正の二つの手法がある。解釈は、裁判官その他の法律家が、拡大解釈縮小解釈反対解釈類推解釈などの方法を用いることにより、成文法源の意味内容を実質的に変更して、成文法源を現実に適合させることである。これに対し、改正は、改正されるべき法源の制定手続を経ること(つまり、アクトゥス・コントラーリウス (actus contrarius) を制定すること)によって、旧い法源を改廃することである。

解釈は、事案の内容に適した形で臨機応変に行えるという長所を有するが、民主的正統性に問題がある。これに対し、改正は、正規の手続を経るために民主的正統性を完備するが、複雑な手続を必要とするために迂遠である(そのため、改正が必要でも抛っておかれることが多い。このため、解釈が必要となる)。

憲法の解釈

憲法に解釈が必要なのは、時代の要請に応えるためという理由のほか、憲法の欠缺を埋め、また、憲法の規定を事案に沿って具体化するという理由からである。

一般的な解釈原理

一般に、法の解釈においては、次の四つの解釈原理が認められている。 • 文言解釈 • 歴史的解釈 • 体系的解釈 • 目的論的解釈

憲法解釈の特殊原理

• 憲法の一体性の原理 • 実益調整の原理 • 権限作用的正義の原理 • 統合的効果の原理 • 憲法の規範力の原理

憲法の改正

憲法史・国制史と比較憲法

日本憲法という対象をよりよく観察するには、歴史という側面と、地理という側面の中で見ることが必要である。憲法史国制史は歴史という切り口で日本憲法を見るものであり、比較憲法は地域ないし異文化での比較という切り口で日本憲法を見るものである。

憲法史・国制史

日本の憲法史・国制史とは、日本という国のあり方の歴史のことであり、要するに日本法制史と内容が重複する。しかし、「歴史的解釈」という解釈方法が存在していることから分かるように、実定法学においても、ある程度の歴史的知識が必要である。しかし、「ある程度」としてどの程度を憲法学の対象として論じるかは、必ずしも明らかではない。ドイツでは、神聖ローマ帝国から論じるもの (Hartmut Maurer, Staatsrecht I, 2. Aufl., S. 36 ff.)、フランス革命から論じるもの (Peter Badura, Staatsrecht, 2. Aufl., S. 24 ff.)、第二次世界大戦後から論じるもの (Theodor Maunz/Reinhold Zippelius, Deutsches Staatsrecht, 30. Aufl., S. 1 ff.) などさまざまである。しかし、日本では、明治維新または明治憲法から述べるというスタイルがだいたい一般化しているようである。ここでもそれに倣うこととし、それ以前の憲法史・国制史は日本法制史の項に譲ることにしよう。

明治維新以前

明治維新による国制の変化を知るには、それ以前の国制を一瞥しておかなければならない。美濃部達吉は『憲法撮要』において、それ以前の国制は封建的君主政であるといっている。その特徴は、1.代表的君主政、2.複合的国家、3.封建的国家、4.階級的国家であるとしている。記述が古いため、現代の歴史学の見地からは問題があるかもしれないが、さしあたりそれぞれの概念を美濃部に沿って解説しておく(美濃部は江戸時代を念頭においている)。 • 天皇自身が統治権を直接行使することはなく、つねに、天皇の委任を受けた将軍が、代表機関として国家の統治権を行使していた。このような統治体制を代表的君主政という。 • 将軍は、直轄地(天領)を除いては、人民に対して直接統治権を行使することはなく、藩主に対して権力を行使するに過ぎなかった。外交権・宣戦講和権・貨幣鋳造権・駅逓行政権などは例外的に幕府に統一されていたが、軍備・裁判・刑罰・警察・課税などに関する基本的な統治権は、藩主に属していた。幕府は藩主に対する監督権を有するに過ぎなかった。このような統治体制を複合的国家という。 • 主従関係が幾層にもヒエラルキーをなし、土地の所有権が人民の統治権と結びついている統治体制を封建制度という。このような統治体制をとるのが封建的国家である。 • 人民は、公卿・諸侯士農工商などの世襲の身分に分かれていた。武士は政治に参加し俸給を受けるが営利活動は行えない、町人は政治・軍役に関われない(参政権・公務就任権がない)が営利活動が可能であるなど、身分によって人の有する権利義務が異なっていた。これを階級的国家と呼ぶ。

明治維新による国制の変化

明治維新によりさまざまな改革がなされ、上記の国制は根本的に変更された。 • 慶応3年(1867年)10月14日に徳川慶喜が天皇に統治権の返還を申し出、同15日に勅許された(大政奉還)。同年12月9日に幕府は廃止され、天皇の官制大権を前提として、近代的な官僚制が整えられていった。つまり、日本は代表的君主政から近代的な官僚機構を手足とする直接的君主政に移行した。のちに、大日本帝国憲法10条は、官制大権は天皇に属することを確認している。 • 明治2年に版籍奉還がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。こうして、国家は、藩という媒介なしに、土地と人民に対して、直接に統治権(立法権・行政権・司法権)を行使することとなった(明治4年には廃藩置県が行われた)。のちに、国家の統治権は天皇が総攬すると、大日本帝国憲法1条および大日本帝国憲法4条は確認している。 • 版籍奉還により藩内の封建制は打破された。人民が土地に縛り付けられることはなくなった。のちに、大日本帝国憲法22条は、人民の居住移転の自由を確認した。 • 明治政府は、公卿・諸侯を華族、武士を士族に改組した。次に、明治4年に士族の公務を解いて、農業・工業・商業の自由を与え、また、平民も均しく公務に就任できることとした。明治5年には徴兵制度を採用し、国民皆兵主義となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。このようにして階級的な特権はすべて廃止された(のちに、大日本帝国憲法19条は人民の均しい公務就任権を、大日本帝国憲法20条は兵役の義務を規定した)。しかし、帝国議会開設に先立ち、明治17年に華族令を定めて、華族に身分的特権を与えた。大日本帝国憲法34条は、華族の貴族院列席特権を規定した。

大日本帝国憲法の制定まで

慶応4年(1868年)3月14日に、天皇は、日本国再建の理念である五箇条を天地神明に誓った。これを五箇条の御誓文という。その第一条には、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と謳われていた。つまり、明治政府は、当初から議会政を目指したのである。

この誓願は直ちに実行に移され、すでに明治元年(1868年)には、各藩の代表者が構成員となる議事機関が設けられた。各藩の代表者は1人から3人とされたが、ドイツの連邦参議院に若干似ているといえる。しかし、これがうまく機能しなかったために、いったん中止することとし、議事体裁取調局による調査を得てから、新たに明治2年に公議所を設置した。これは、各藩1人の代表者により構成されたが、合衆国の上院に若干似ているといえる。その後さまざまな改革を受け集議院となるが、結局明治4年の廃藩置県により存立の根拠を失い、明治6年には廃止されている。

廃藩置県の後、同年、太政官官制が改革されて、正院・左院・右院となり、左院は、官撰の議員によって構成される議事機関となった。しかし、明治7年に、征韓論争に敗れた副島種臣板垣退助後藤象二郎江藤新平等が連署して、民選議院設立建白書を左院に提出し、官撰ではなく民選の議員により構成される議事機関が必要であることを説いた。これを機縁として、薩長藩閥による政権運営に対する批判が自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社がおこなわれた。明治6年・7年ごろから、各地で内乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した(代表的なものとして、明治7年佐賀の乱、明治9年神風連の乱、明治10年西南戦争など)。

このような状況に藩閥政府も譲歩を余儀なくされ、明治8年(1875年)4月14日には「元老大審二院を置くの詔」が出された。この詔書において、明治天皇は、「朕、…ここに元老院を設け、もって立法の源を広め、大審院を置き、もって審判の権を鞏(かた)くし、又、地方官を召集し、もって民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、なんじ衆庶と倶にその慶に頼らんと欲す」と述べ、元老院大審院・地方官会議をおき、段階的に立憲君主制に移行することした。これは、大久保利通伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允板垣退助らの民権派の会談である大阪会議の結果である。また、地方の政情不安に対処するため、明治11年には府県会規則を発して、各府県に民選の府県会を設置した。これが日本で最初の民選議院である。

続いて、明治天皇は、明治9年(1876年)9月6日に「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発し、「朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。朕、まさにこれを撰ばんとす」と述べた。元老院は、この諮問に応えて、憲法取調局を設置した。明治13年(1880年)に「日本国憲按」が成案となったが、日本の体制を斟酌していないものとして岩倉具視・伊藤博文らの反対に遭い、採択されるに至らなかった。

岩倉具視を中心とする勢力は、明治14年の政変によって大隈重信を罷免し、その直後に御前会議を開いて国会開設を決定した。その結果、明治天皇は明治14年(1881年)10月12日に次のような国会開設の勅諭を発した: 「朕、祖宗二千五百有余年の鴻緒を嗣ぎ、中古紐を解くの乾綱を振張し、大政の統一を総覧し、又、つとに立憲の政体を建て、後世子孫継ぐべきの業をなさんこと期す。さきに明治八年に元老院を設け、十一年に府県会を開かしむ。これ皆、漸次、基を創め、序に循て歩を進むるの道によるにあらざるはなし。なんじ有衆また朕が心を諒とせん。 顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。今、在廷臣僚に命じ、仮すに時日をもってし、経画の責に当らしむ。その組織権限に至っては、朕、親ら衷を裁し、時に及んで公布する所あらんとす。 朕おもうに、人心進むに偏して、時会速なるを競う。浮言相動かし、ついに大計を遺る。これ宜しく今に及んで謨訓を明徴し、もって朝野臣民に公示すべし。もしなお故さらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害する者あらば、所するに国典をもってすべし。特にここに言明し、なんじ有衆に諭す。」 つまり、明治23年に国会を開設する代りに、これ以上内乱を企てるなということである。また、不明確ながらも、天皇自身が憲法を公布することも示唆している。

「在廷臣僚」として憲法起草の役目を負ったのは、参議伊藤博文であった。彼は、ヨーロッパを視察し、ベルリンウィーンでルドルフ・フォン・グナイスト、ロレンツ・フォン・シュタインらの講義を聴いた。その結果、ドイツの憲法体制がもっとも日本に適すると信ずるに至る。伊藤は、帰朝して、明治16年に憲法取調局(明治17年に制度取調局に改称)を設置し、井上毅・伊藤巳代治・金子堅太郎の協力を得て憲法の草案を起草するとともに、各種の改革を行った。 • 太政官官制を廃止し、内閣を設置(伊藤自身が内閣総理大臣に就任)。 • 天皇の諮問機関として枢密院を設置。 • 市町村制を発布して地方自治制度を整備。

明治22年(1889年)2月11日に大日本帝国憲法は公布され、同時に皇室の家法である皇室典範も定められた。また、議院法・貴族院令・衆議院議員選挙法・会計法なども同時に定められた。第一回帝国議会は、明治23年(1890年)11月29日に開会した。

比較憲法

• ドイツ憲法 • フランス憲法 • 合衆国憲法 • ベルギー憲法 • オーストリア憲法 • イタリア憲法 • オランダ憲法 • 連合王国憲法

日本の憲法の内容

日本の憲法の主たる法源は、日本国憲法(形式的意味の憲法)である。ここでは、日本国憲法には述べられていない憲法上の問題について述べる。

領土

ゲオルク・イェリネックのいう国家の三要素のうち、国民 (Staatsvolk)・国家権力 (Staatsgewalt) に関して日本国憲法は論じているが、国家領土 (Staatsgebiet) に関しては、日本国憲法は沈黙している(これは比較憲法的には異例に属する)。日本国の領土を決定する法規範は、主として条約にある。

なお、大日本帝国憲法も、国家領土については沈黙していた。このため、帝国憲法施行後に獲得された領土については、憲法の場所的適用範囲が問題となった。これについては、肯定説・否定説・折衷説が対立した。

法令の形式・公布・施行

法令の形式については、大日本帝国憲法の施行に先立ち、明治19年に公文式が制定された。明治40年には、公式令が、これに代わった。第二次世界大戦後の昭和22年には、内閣官制の廃止等に関する政令によって、公式令は廃止された。

法律の施行については、法例1条に規定がある。

国家の自己表現

いわゆる国家の自己表現 (Selbstdarstellung des Staates) に関しても、日本国憲法は沈黙している(これも、比較憲法的には異例である)。主な法源として、次のようなものがある。 • 国旗国歌法:日本国の国旗日章旗国歌君が代であることを規定している。 • 元号法元号政令で定めるべきこと、元号は皇位継承があった場合に限り改めること(一世一元の制)を規定している。 • 国民の祝日に関する法律首都に関しては、明治元年の東京奠都の詔がある。また、近年では、首都機能移転が論じられている。

関連記事

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著名な憲法学者

• ゲオルク・イェリネック • ハンス・ケルゼンカール・シュミット • ルドルフ・スメント • コンラート・ヘッセ • パウル・ラーバント • 芦部信喜 • 一木喜徳郎(1867~1944) • 市村光恵 • 上杉慎吉尾吹善人奥平康弘 • 清宮四郎 • 黒田覚 • 小林直樹佐々木惣一(1878~1965) • 佐藤幸治杉原泰雄長谷川正安長谷部恭男樋口陽一穂積八束美濃部達吉宮沢俊義




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