This article at Wikipedia

清洲城

清洲城(きよすじょう)は尾張国清洲(西春日井郡清洲町)にある。尾張国の中心部に位置し、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として重視された。

歴史

応永12年(1405年)尾張・遠江越前守護の斯波義重によって築城。当初は尾張守護所である下津城の別郭として建てられたが、文明8年(1476年)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失し、文明10年(1478年)に守護所が清洲に移転する事で尾張国の中心地となった。 一時期、織田信秀が清洲奉行として居城した以外は常に織田宗家の居城としてあり、尾張守護代織田家の本城として機能した。

織田信秀が古渡城に拠点を移すと宗家の織田信友が入城したが、弘治元年(1555年)織田信長によって信友が殺害され、以降信長が那古屋から移って大改修を加えた後、本拠として居城した。 信長は約10年間清洲に居城したが、永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。

天正10年(1582年)本能寺の変で信長が斃れると清洲会議の舞台となり次男・織田信雄が相続した。天正14年(1586年)に信雄の手によって二重の堀をめぐらし大天守・小天守・書院等の造営が行われている。小牧・長久手の戦いで信雄が羽柴秀吉に敗れると信雄は除封され羽柴秀次の所領に組み込まれた後、文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、関ヶ原の戦傷がもとで病死すると慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直が入城した。

慶長14年(1609年)徳川家康によって清州から名古屋への遷府が指令されると、慶長15年(1610年)より清州城下町は名古屋城下に移転(清洲越し)し、清洲城も名古屋城築城の際の資材として利用された。特に名古屋城御深井丸西北櫓は清洲城天守の資材を元に作られ清洲櫓と呼ばれる。慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了した事により廃城となる。

現在の清洲城

現在再建されている清洲城は清洲町制100周年を記念して平成元年(1989年)に再建されたものだが、資料が ほとんど残っていない為外観は想定して作られている。また城跡も開発の犠牲で大部分は消失し、現在は本丸土塁の一部が残るのみである。その為現在の清洲城も実際の位置とは別の位置に建設されている。 御深井丸西北櫓は現存し重要文化財に指定されている。

関連項目

日本の城一覧

外部リンク

清洲町公式ホームページ



This article is from Wikipedia, the Free Encyclopedia. All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.


社会 • 社会政治経済産業交通教育歴史福祉医療環境環境問題市民活動平和軍事 • 芸術と文化 • 芸術文化言語宗教遊び趣味伝統芸能文学音楽美術演劇映画アニメ漫画建築スポーツゲームギャンブル食文化ファッションマスメディア出版新聞放送テレビラジオ • 世界 • 世界アジアアフリカオセアニア北アメリカ南アメリカヨーロッパ • 日本 • 日本北海道東北関東中部近畿中国四国九州沖縄 • 学問 • 学問文学哲学倫理学心理学社会学法学経済学数学物理学化学生物学地球科学医学工学 • 自然 • 自然宇宙元素気象災害海洋生物植物動物鉱物 • 技術 • 技術コンピュータネットワークエレクトロニクスバイオテクノロジー • 資料 • 索引年表365日地図世界各国関係記事人名一覧一覧の一覧