海洋堂
株式会社 海洋堂(かぶしきがいしゃ かいようどう)は、ガレージキット・フィギュア・食玩等の各種模型を製作する会社である。
模型業界では、高い造型技術と破天荒な経営で有名である。造型技術の水準は高く、精巧さや高い技術力、デザインは世界的に見ても屈指のレベルを誇る。アメリカのマニアコミック市場を仕切るダイヤモンドコミックやニューヨーク自然博物館など、海外からの模型の製作依頼もくるほどである。
日本国内ではチョコエッグをヒットさせて以来知名度が上がり、海洋堂が製作した「食玩」などには、そのほうが売れるということで海洋堂の名がクレジットされる程である。
海洋堂の歴史
海洋堂、創業
海洋堂は、創業者である宮脇修が1964年4月1日に、自らの経営する貸し本屋を改装して開いた模型店が始まりである。開店後の海洋堂は子供達がいつもたむろしている店であったが、同時に海洋堂は宮脇修の性格からか多少変わった事をする店であった。例えば、戦艦のプラモデルをお風呂に浮かしても狭くて臨場感が乏しく、だからといって川に浮かせば流れていって帰ってこない、ということで店内の3分の2を使ってプールを作ってしまう。
また、スロットレーシングが流行していた頃、空いていたボーリング場を借りて大きなレース場を作ってみたりする。
さまざまな失敗
しかし、うまくいく時だけではなかった。イマイ科学という会社が経営危機に陥った際、ローマの軍船のモデルを作ってそのノウハウを伝えたのだが、海洋堂のような小さな店の企画アイデアで助けられるというのが意に沿わぬイマイ科学との間に感情の齟齬を来たす。結局、アイデアとノウハウだけ持っていかれる形になってしまった。スロットレーシング場も、借りていたボーリング場が解体されることになり、代替にボーリング場の隣にある200坪の倉庫を新たに借りて、180mに及ぶ本格的なレース場を作る(この場所は後に海洋堂のホビー館となる)。
しかし、新たにレース場を作った頃には他にも同様のレース場ができており、客足はこちらへなかなか向かなかった。そのうえレース場が大きすぎ、小さいスロットレーシングカーは遠くに走ってしまうと見えなくなってしまい、勘で操作しなければならなくなり、ますます客足は遠のく。
しかも200坪もの大きな倉庫のため賃料も高く、借金で借金を返すということを繰り返す羽目になる。さらに金策に駆けずり回っていた常務である宮脇夫人(宮脇里枝)がガンを患ってしまう。夫人のガンは治癒はしたものの、またすぐに金策に駆けずり回っている。
アーケードゲーム
そんな海洋堂を救ったのはアーケードゲームであった。ギャラクシアンなどのアーケードゲーム機を倉庫の中にいくつも並べたところ、子供達がゲーム目当てに大勢来るようになったのである。これには専務であり宮脇修の息子、宮脇修一もこんな簡単に何とかなるとは思わなかったほどである。とにかくこれで救われた海洋堂はその広い倉庫内にプラモなども置いてガンガン儲けたのであった。また、当時の海洋堂は模型好きの溜まり場ともなっており、模型を買いもしないのにフラフラと毎日店に来る人達がいた。彼らの中には後に有名造型師(ボーメなど)となる人もいたが、その当時は何の変哲もない模型好き達であった。そんな彼らを宮脇修は店に招きいれ、快く食事をご馳走する事もあった。また、彼らもただ集っていただけではなく、店の手伝いを無償でやっていたりもしている。宮脇と彼らは一種不思議な関係を築いていた。しかし、この状況こそが今の海洋堂の高い技術を持った造型師が集まっている理由と言えるだろう。
新たな展開
バキュームフォームキットという、バキュームフォームという成形技術で作られた模型を作ってマニアに売っていた。そんなある日、川口哲也がモスラの幼虫のキットを持って海洋堂のホビー館にやってきた。川口の本職は歯科技工士で、入れ歯を作るのと同じ方法でモスラの幼虫を作り、それを持ってきたのである。それは海洋堂の人達を驚かせるものであった。この方法を応用すれば、プラモデルの金型成形よりも安価で柔らかい、且つ緻密でリアルな表現が可能になるからである。それからの海洋堂は自分達が欲しいと思っていたものを作り、会員向けに売り出すようになる。
ある日海洋堂に岡田斗司夫が現れた。これがゼネラルプロダクツとの対峙の始まりであった。
ゼネラルプロダクツは「版権を取って商品を売る」ということを始めていた。そのことは海洋堂にとって本当に驚くべきことであった。ガレージキットの売れる数というのは200売れたら相当売れたという程の物で、わざわざ版権を取って売るなどというのは頭からなかったのである。しかし、世界一を目指している海洋堂は思わず張り合って自分達も版権を取って商品を売り始めたのである。製品のクオリティはゼネラルプロダクツより海洋堂の方が高く(それは岡田斗司夫も認めている)結局のところ海洋堂は勝った。
ノンキャラクターの模索
順調に売り上げを伸ばしていた海洋堂だが、何か一つキャラクターが売れるのがわかると、その版権は海洋堂が所持していたにもかかわらず担当者が変わって大企業に渡されてしまうという事態が起こる。どの版権に対しても同じ事が発生し、結局海洋堂はノンキャラクターでの模索をすることになる。スポーンというアメリカのコミックの作者であるトッド・マクファーレンが自分でスポーンのアクションフィギュアを製作するが、それは海洋堂を驚かせることとなる。
それレベルのものを作るのはわけないのだが問題はガレージキットと同じ作り方ではなく金型で作ったということである。金型を利用すれば大量生産が可能となるが、どうしてもクオリティ(精度)が下がってしまう。それにも関わらずスポーンのアクションフィギュアは出来が良かった。また、それは日本でも売れ行きがよく、この事実は海洋堂の闘志に火をつけた。
しかし、金型は金がかかる無理だなと思っていたらある時中国で作ればそうでもないということを知る。それがGOサインであった。だが、こんなウチのレベルをわざわざ下げたものを真面目に作るのは気が引けると、シャレでやるんだと作り出した。スポーンがバイオレンスものであった為にこちらもバイオレンスもので、しかもメジャー作品のもので馬鹿馬鹿しさもある北斗の拳でいくことにした。
中国での製造
中国での製品作りはなかなかに大変なものであった。最初の段階である金型製作から問題が発生する。中国の工場では、海洋堂が作った原型を元になぜか大きさを2倍にした金型を作ってしまう。しかも原型を見ながら作るという、とんでもないことが他にもいろいろと起きる。そのうえ海洋堂にしても海外の工場で生産する事は初めてであり、苦手とするような分野であったために大変な苦労をした。しかしそんな苦労もあって海洋堂のアクションフィギュア「北斗の拳」は大ヒット。あまりのヒットに「やっとメーカーになれましたね」と人から言われる始末であった。しかし、海洋堂としてはまだ不満が残る。今回の事例では、海洋堂にしかできない、海洋堂でないとできない独自なものが何一つなかったからである。
新世紀エヴァンゲリオン
そんな時、造型師の山口勝久が新たなフィギュアを製作する。アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に出るエヴァンゲリオン初号機のアクションフィギュアである。これは体がいくつかのパーツに別れていて、それらを組み合わせるとアニメの中で出てくる名シーンなどのポーズがとれる物であった。関節が動くものならそういうものは楽にできるのではと思われがちだが、実際にはフィギュアなどの関節はそれほど動くものではなく、アニメでは絵的な嘘(構造上動かないはずの方向に曲がる、稼動する限界を多少超えて描かれてしまうなど)も含まれるのでそのようなポーズをとるのは不可能な場合も存在する。それを、そう多くない数のパーツでファンに受けるポーズを幾つもとれるという画期的なものを発明したのである。その商品は大ヒット。その後も同じような商品をいくつも出した。
チョコエッグの時代
ノンキャラクターの道を模索していた海洋堂にフルタ製菓から仕事の話が来た。もともとはポケットモンスターのフィギュアの造型がうまくいかず、何とかならないかという話だったが、工場を見学した宮脇修一専務がなんとはなしにチョコエッグを試しに持ち帰って来た事により話は変わってくる。宮脇修一はチョコエッグのおまけは今のところたいしたものではなく、これを海洋堂が作る事で今よりももっと良い物ができると思ったのである。その話をフルタ製菓に持ちかけたところ、了解を取る事ができた。フルタ製菓は古い体質の会社だったが、チョコエッグという商品自体は、フルタ製菓の専務が独自にやっていたのでスムーズに話は進み、動物というノンキャラクターのおまけフィギュアをつけて売り出すことになった。原型師は松本しのぶ。動物関係での造型は海洋堂一の腕を持つ原型師であった。
結果は大成功。他の人気キャラクターのおまけつきの商品を押さえ堂々一位の売り上げを記録した。その後も売れ続けツチノコがシークレットで入っているということ等で人気に火がつき大ブームとなった。
しかし、フルタ製菓は裏でいろいろ画策したり、内部分裂等をしてしまい、いろいろあって海洋堂はチョコエッグ、ひいてはフルタ製菓から縁を切る事となる。海洋堂にとってもそれは手痛いことであったが、うまくできないならきっぱりやめてしまう海洋堂らしさが出た一面でもあった。その後はタカラや北陸製菓などから食玩を出し、それらもヒットさせている。そして現在に至る。
関連事項
ガレージキット フィギュア 食玩 ゼネラルプロダクツ チョコエッグ ボークス 造型師
外部リンク
株式会社海洋堂公式ホームページ kaiyodo@net- 海洋堂の発売する商品の最新情報が載せられるサイト