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松之大廊下

松之大廊下まつのおおろうか)は、江戸城(千代田城)本丸御殿の表(政庁エリア)にあった。江戸城では二番目に長い廊下で、後世、忠臣蔵と称される物語の発端となる事件が発生した現場である。

刃傷松の廊下

元禄十四年三月十四日(1701年4月21日)、殿中松之大廊下で刃傷事件が発生。加害者は、賀詞を伝えるために参向した東山天皇勅使御馳走人浅野内匠頭長矩(三十五歳)で、被害者は、高家肝入の吉良上野介義央(六十一歳)。当時居合わせたのは、長矩と同じく勅使として参向した柳原前大納言資廉(やなぎはら・さきのだいなごん・すけかど)と、高野中納言保春(たかの・ちゅうなごん・やすはる)。
柳原資廉の『関東下向日記』(岩瀬文庫蔵)には、こうある。

「浅野内匠乱気欤、次ノ廊下ニテ吉良上野介ヲキル、大ニ騒動…」

このシ―ンは、松の大木の壁画と重ねられて「刃傷松の廊下」として伝えられてきた。 浅野内匠頭は、改易。領土赤穂、城、江戸の屋敷は没収となり、本人は即日切腹。吉良上野介はお構いなし、養生に励むようにとの、上からの沙汰であった。

位置と構造

「大廊下」といえば、ふつうは表の大玄関の右を抜けてまもなく、左手にある中之口(通用口)から入ってすぐの長い廊下を指したようだ。
刃傷事件の現場となった松之大廊下はそれとは別で、当日、儀式が行われる予定であった御白書院のすぐ南にある、桜溜(桜之間)の杉戸が始点てある。
桜溜の杉戸から、まっすぐ南へ歩く。左手は大きな中庭に面しており、右側の襖や壁には松の障壁画が続く。襖のところには、上之御部屋と下之御部屋が続いていた。
そのまま歩くと突き当たって左折となる。同じように左手は中庭に面し、右の壁には松の絵が続く。七間ほども歩いたところに、松之大廊下の終点の杉戸があった。杉戸を開ければ、すぐ右手(南側)にも杉戸がある。これは、四百畳敷きの大広間に入るための大広間西御縁につながっている。松之大廊下終点の杉戸の先は、大広間北御縁になる。そのまま進むと、八間ほど先の正面は溜(たまり)と呼ばれた部屋があって、その部屋を突き抜けると玄関に続く廊下にでる。溜の手前には直角に北に向かう柳之間の廊下が中庭に面してあった。 溜の北隣には、南北二間続きの柳之間があった。ここは、浅野内匠頭の殿中席(殿中の控席)である。

江戸城本丸御殿の絵図では「松之御廊下」と書き込まれたものや、ただ「大廊下」と書いたものもある。上之御部屋や下之御部屋を殿中席とする大名については、その殿中席を「大廊下」ということもある。いくつかの史料や史跡の石碑には「松之大廊下」と書かれている。正式名称というものはなかったようである。
平面図(上から見た図)で見ると、松之大廊下はアルファベットの”L”の形をしている。縦棒の頭のところが北端で、桜溜の杉戸がある。横棒の右端が松之大廊下の終点の杉戸で、その先は大広間北御縁。大広間は、この御縁の向こう(南)にあった。
"L"字の縦棒の右側と横棒の上側は、大きな中庭に面していたのである。

刃傷事件の前、御留守居番の梶川與惣兵衛は、柳之間に近いところから松之大廊下終点の杉戸を開けて進んだ。その部分の幅は二間(約4メートル)。しばらく行って、右手の角柱(すみばしら)のところから、桜溜の方を見た。”L”字の縦棒にあたるところの幅は二間半(約五メートル)。
松之大廊下は、内のり総長二十四間余(約50メートル)もある。一間を1.8メートルとして計算している資料もあるが、京間寸法なので一間は1.8メートルではなく、2メートルで概算する。

松の障壁画

L字縦棒の左(西)側には上之御部屋と下之御部屋が続き、その襖や壁には松の木が描かれ、L字の横棒下方に続いていた。
かつては、この廊下の障壁画は、松の巨木を描いたものと思われた。しかし、昭和の終わりに国立東京博物館の倉庫から発見された下絵から、何本も連なる浜の松に千鳥が遊ぶという、優しい図柄であったと推測されるようになった。

舞良戸と明障子

錦絵や映画、テレビドラマなど画像では、中庭側は柱と柱の間に何もなく、素通しのイメージである。
もしほんとうにそうだったならば、横殴りの雨がったら、畳はびしょ濡れになる。
戸袋はないか、平面図をいくら探してみても、松之大廊下の雨戸を収納する戸袋のよなものはない。
では、どうなっていたか。事件前の状況を知る上で、非常に重要なところである。
柱と柱の間隔はすべて等しいわけではなかったが、仮に一間であったとしよう。そこには、半間の舞良戸(まいらど)二枚に、明障子(あかりしょうじ)一枚があった。
敷居と鴨居には三本の溝があって、廊下から中庭に向かって、明障子・舞良戸・舞良戸の順にはめこまれ、引き違いになっていたのである。
戸と障子をすべて重ねれば、半間分は中庭との境がない。外からさわやかな空気をとりいれたいときなどは、三枚重ねとする。舞良戸二枚を重ねて障子を閉めれば、外気を遮断して明かり取りができる。一枚の戸に障子を重ねて、もう一枚の戸を閉めれば、装飾的な舞良戸も雨戸の代わりになる。

護持院の隆光大僧正の日記によれば、刃傷事件のあった日の朝は、外は風が強護持院の隆光大僧正の日記によれば、刃傷事件のあった日の朝は、外は風が強く寒かった。松之大廊下の中庭側の戸と障子は、このときどうなっていただろうか。
戸2枚を重ね、障子を閉めていたはずである。
吉良上野介に斬りかかった浅野内匠頭長矩は、留守居番の梶川與惣兵衛によって取り押さえられた。
梶川日記には事件の様子が詳細に書かれているが、上記の松之大廊下の構造と照らしてみると、浅野内匠頭の動きが見えてくる。
舞良戸二枚、そして明障子一枚の引き違い構造は、書院造りに見られるもので、吉良上野介が寄進した東條吉良氏菩提寺、愛知県の花岳寺の本堂にもある。

上・中・下段、二・三・四之間と能舞台

松之大廊下はそもそもは将軍の御成廊下であった。終点の杉戸を開けてすぐ、右手の杉戸を開けたところが大広間西御縁で、その御縁の左手に、上段之間・中段之間・下段之間と続いていた。大広間西御縁は、松之大廊下と大広間をつないでいる縁側といっていい。この御縁、中段之間と下段之間の境あたりに杉戸があって、それを突き進んで左に折れると下段之間の南、大広間南御縁につながる。まっすぐ行くと、左手には二之間・三之間が続く。
大広間の南側の外には、常設の能舞台があった。刃傷事件の前日は、勅使らのなぐさみに、南の外にある舞台で猿楽(能)が演じられた。高覧の席は大広間である。

御成廊下

大広間西御縁を左に折れ、南御縁をまっすぐ行く。突き当たった右手、南に突き出た部分を御中門という。寝殿造では南の庭の池に通ずる廊下があって、その名残である。御中門の反対側、南御縁を左に折ると大広間東御縁。その東御縁に入ると左手に三之間・四之間と続いているが、右手には将軍が外出したり帰城したときの専用出入口がある。ここが大広間の正面なのである。 大広間東面立面図を見ると、寝殿造由来の観音開き左右二つ折りの装飾唐戸がある。外には唐破風(はふ)の下に、寝殿造に見られる車寄由来)の駕籠寄があった。
松之大廊下は、将軍の居室がある中奥(なかおく)と駕籠寄を結ぶ導線のなかにある。将軍専用の廊下だったので、映画などに見るような、大勢の武士が行き来するようなところではなかった。



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