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明治六年政変

明治六年政変(めいじろくねんせいへん, 1873年)は、征韓論に端を発した明治初期の一大政変。 当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。

そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣したが、その文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、受理を拒んだ。また当時における日本大使館のようなものである倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど殊更無礼な態度を取った為、武力行使も辞さないという強硬派が現われた。西郷はそれを押さえ、まず自ら非武装で朝鮮に行き、礼を尽くして談判後それでも決裂した場合、朝鮮の罪を明らかにし非を問うべきだと主張。元々士族の窮状に心を痛めていた西郷は、自らが朝鮮で殺されることを持って征韓を政府に決行させようとしていたとも言われる。

この西郷の使節派遣に賛同したのが板垣退助後藤象二郎江藤新平副島種臣桐野利秋らであり、反対したのが大久保利通岩倉具視木戸孝允伊藤博文大隈重信、大木喬任、黒田清隆らである。この征韓論争は「征韓派VS内治派」という単純な構図ではなく、裏には藩閥の主導権争いを巡る思惑が絡んでいたとされる。

大久保は西郷が朝鮮に行った場合必ず殺される、その場合征韓せざるを得なくなるとして猛烈に反対、費用の問題、ロシアとの関係から征韓の不利を説き延期を訴えたが、10月14日~15日に開かれた閣議により西郷即時派遣が決定。反対(延期)派の参議である大久保、木戸、大隈、大木は辞表を提出、右大臣の岩倉も辞意を伝える。

後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、この事態にどちらかと言えば反対派であった太政大臣三条実美10月17日倒れ、人事不肖に陥る。 太政官職制に基づき岩倉が太政大臣代理に就任すると、大久保、大隈、伊藤、黒田らは宮中工作を開始、宮内卿徳大寺実則の助力を得て事前に明治天皇に延期論を上奏、これは明治天皇の意思を拘束する為であった。そして10月23日、岩倉は閣議決定の意見書とは別に西郷派遣延期の意見書を提出。結局この意見書が通り、西郷派遣は幻となった。閣議決定が工作により覆されたのである。

そして西郷は当日の10月23日、板垣、後藤、江藤、副島は翌10月24日に辞表を提出。10月25日受理され、賛成派の参議5人は下野した。また征韓論に賛成する軍人、下野した参議と懇意であった官僚も大量に連快辞職。ちなみに反対派参議の辞表は当然不受理となった。

この政変により大久保が政府の実権を握り、その後の明治政府の方針が確定した。 また佐賀の乱西南戦争などの士族反乱や自由民権運動の発端ともなった。




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