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本所の吉良屋敷

本所の吉良屋敷は、元禄15年12月14日に起きた夜討事件現場。「吉良邸討入事件」と書くことが多い。発生したのは12月14日から15日にかけての晩であり、現在の時法では元禄15年12月15日(1703年1月31日)未明となる。

事件の背景

元禄14年3月14日、勅使御馳走人の役を賜った浅野内匠頭長矩が、殿中松之大廊下高家肝煎の吉良上野介に刃傷におよび、即日切腹、改易となった。この刃傷事件が喧嘩であるならば、相手の吉良上野介に報復すべき、と1年10ヵ月後に浅野の遺臣が本所の吉良屋敷に夜討ちをかけた。

事件現場

史実としてみるときには、事件現場は「吉良上野介邸」とせず「吉良左兵衛邸」とすべきであろう。なぜなら、前年12月12日に、上野介義央は隠居しており、嗣子として四歳のときに上杉家から迎えた左兵衛義周(上野介義央の実の孫)が家督を相続(四千二百石、表高家…高家のうち無役のもの)を命じられているからである。従って、討入事件があったときは、義周(数え十七歳)が吉良家の主人で、本所の屋敷も義周の名で公儀より拝領したものだからである。

講談調に、「頃は元禄十五年、雪降りしきる本所松坂町の二丁目、吉良上野介の屋敷に‥‥」と、「松坂町二丁目」という住所を示すものも多い。ところが、武士の居住地には、住居表示のための住所というものはなかった。それに、松坂町は討入事件の4年後についた町名で、吉良屋敷があった場所は松坂町二丁目だけではなく、一丁目の一部も含む。

史料にみえるのは「本所一つ目」あるいは、「本所一つ目と二つ目の間」などである。本所の竪川にかかる橋は、大川(隅田川)に近いほうから「一つ目之橋」「二つ目之橋」「三つ目之橋」と書かれた江戸絵図(地図)が何枚もある。「本所一つ目と二つ目の間」などはここからきている。本当の橋名は、元禄時代も今も同じ「一之橋」「二之橋」である(今は2つの橋間、吉良屋敷跡の至近に塩原橋がある)。なお、時代小説などで「一ツ目橋」というような書きかたがみらるのは「の(no)」がつまって撥音になり「ひとつめんはし」から転じたと考えられる。江戸の町人言葉の特徴でもある。武士は「ひとつめのはし」と言っていたと考えられる。竪川にかかる一之橋の南の袂には、「一つ目弁天」があった。この弁天さまについては、どの史料でも「一つ目之弁天」ではなく「一つ目弁天」になっている。

当時の地図の第一人者、遠近道印作の改選江戸大絵図の元禄15年の版には、竪川の南に「キラ左兵」(吉良左兵衛)の書き込みが見られる。「ヱカウイン」(回向院)の東隣。吉良屋敷の北隣、西側には「土やチカラ」(土屋主税)、東側には「本タマコタロ」(本多孫太郎)の書き込みがある。この「キラ左兵」の書きこみのあった場所が討入事件の現場である。

勅額火事と鍛冶橋の吉良屋敷

勅額火事のすさまじいばかりの火の手は、鍛冶橋御門内にも入り、吉良屋敷および周辺の大名上屋敷も火災にあっている。
忠臣蔵にまつわるほとんどの本では「鍛冶橋の吉良邸が焼けて呉服橋に引っ越した」等と簡略に書かれ、吉良屋敷ばかりが被災したかのように書かれている。新しい屋敷の普請のために上杉家からどれだけの金がでたかなどの話はあっても、その火事が歴史に残る大火であったと書いてあるものは、まずない。吉良家についていえば、大火のあった日を呉服橋内の屋敷への移転の日としていたりする。
浅野内匠頭の結婚直前に天和の大火(お七火事)があった。勅額火事はその規模を上回る大火であった。よくいわれるように、吉良上野介の屋敷は火災で焼失し、鍛治橋御門内から呉服橋内御門内に移転したのであるが、火事の規模からいえば吉良の屋敷だけの問題ではない。上野介の移転先というのは、これも勅額火事で焼けた老中・小笠原佐渡守の屋敷跡である。上野介の屋敷が焼けて、即日新居に引越したように書かれてある本もあるが物理的にも不可能なことである。呉服橋内への移転は、早くとも元禄12年の春以降のことだと考えられる。

勅額火事と本所の松平登之助屋敷

殿中松之大廊下の事件の同年、8月19日には吉良上野介は呉服橋内の新築の屋敷から本所の屋敷に屋敷替となった。上野介の新居となった本所の屋敷については、江戸学の始祖といわれる三田村鳶魚の『横から見た赤穂義士』(民友社・昭和2年)の影響か、古びて今にも崩壊しそうなたもののように思われてきた。鳶魚は明治45年には、寛政重修諸家譜によって、上野介の移転先を本所の松平登之助の屋敷としていたが、昭和2年の著作では「近藤登之助」の名に変わっている。
近藤登之助(この人はほんとうは登助と書く)は、講談の「幡随院長兵衛」のなかにもでてくる鉄砲百人組頭。半世紀も前に没している。そこで、長い間空家になっていたところに上野介は移転させられたというストーリーができあがったのであろう(呉服橋内の屋敷とおなじく新築に近いはずなのに)。おそらくこれは、地元に伝わった「兼春稲荷」の縁起書、享保の時代に稲荷別当によって書かれたものからである。「松平登之助」を「近藤登之助」としてしまったのは、勅額火事のあとにできた武家屋敷を、明暦の大火後と誤ったことからのようだ。吉良屋敷跡の松坂町の住人は、昔のこの周辺のことはよく知らなかったし、兼春稲荷別当は森下に住んでいた人である。土屋・本多屋敷に住む人ならばこんな間違いはしなかったろう。この縁起書が書かれたときには、松平登之助は、まだ存命であった。

古地図をみると

元禄10年(推定)の江戸絵図を見ると、元禄15年の江戸絵図では確認できる「吉良家およびその周辺の武家屋敷」が無い。その部分は、広大な土地が「御竹蔵」になっていた。元禄15年の絵図では、勅額火事以降に両国橋の西、矢之蔵跡には武家屋敷や米沢町(堀部弥兵衛借宅があった)と称する町屋などが現れて、江戸の町並みが大きく変わっているのがわかる。

『御府内場末其他往還沿革図書』という史料がある(東京都公文書館蔵・図書=ずしょ)。これは老中命によって普請奉行が責任者となってつくられた。弘化3年(1846年)成立であるが、年代ごとのそれぞれの土地の変化が詳細にわかる、精度の高い彩色図版と説明文による図書である。
御府内場末其他往還沿革図書によれば、元禄11年11月に御竹蔵跡地に土屋主税逵直と松平登之助信望の屋敷ができ、12月には本多孫太郎長員の屋敷ができたということになっている。勅額火事の直後である。ちなみにここでいう「屋敷」は建物を含まない敷地だけの意味である。

土屋主税と松平登之助の屋敷は、勅額火事以前は神田川の北に沿った佐久間町二丁目の北側(JR秋葉原駅あたり)に隣り合わせてあり、本多孫太郎の屋敷は佐久間町五丁目の北側にあった。勅額火事の直後に御竹蔵の西方を整地し、そのうちの一つのブロックに、土屋・松平・本多の三家の屋敷が移転したのである。御府内場末其他往還沿革図書は、一般に流布されたものではなく、役所の史料である。事件から一世紀半を経て成立したものだが、江戸絵図や家譜、公文書、随筆などとも整合し、きわめて信頼性の高い史料といえる。

吉良上野介の移転先は、松平登之助が拝領していた屋敷であった。吉良上野介を呉服橋内から移転させるために登之助はいつのまにか後のJR御徒町駅近くに移転していた。これらからの推測で、大火後の建築ラッシュまで見込むと、吉良上野介が移転した旧松平登之助屋敷の館は、築2年くらい、昔の武家屋敷の感覚では、新築に近いものと考られる。

本所の吉良屋敷隣家および関連人物

松平登之助信望まつだいら・のぼりのすけ・のぶもち
当時は五千石の大身旗本で、将軍綱吉の御小姓。バックには従兄弟で十歳年長の大物政治家、松平右京亮(うきょうのすけ・のちの右京太夫)がいた。登之助と右京亮は、江戸初期に「智恵伊豆」の異名で知られた切れ者老中・松平伊豆守信綱の孫にあたる。
登之助の父の代には、東隣が土屋主税の屋敷で、その東隣には牧野長門守直成(まきの・ながとのかみ・なおしげ)の屋敷があり、そのまた東隣が右京亮の屋敷だったことがある(登之助の父の正室は土屋主税の家から嫁いでいる)。西から登之助の住んでいた屋敷・土屋主税の屋敷・牧野長門守の屋敷・松平右京亮の屋敷と、一列に並んでいたことがあったのである。

松平右京亮輝貞まつだいら・うきょうのすけ・てるさだ
元禄六年(1693)正月より、御側用人。翌月にも一人増員されて、筆頭の柳沢出羽守保明(やなぎさわ・でわのかみ・やすあきら/のちの松平美濃守吉保)のもと、御側用人は三人体制になるが、一ヶ月も経たずに後から増員された者は罷免。輝貞は柳沢の養女を娶り、翌年八月には次席御側用人となって柳沢と二人三脚で政治を行っていった。綱吉将軍が柳沢の屋敷に頻繁に足を伸ばしたことはよく知られているが「常憲院殿御実記」をみると、右京亮の屋敷にもよく行っていたことがわかる。また、政治の重要なところには頻繁に名が出ていた。八代吉宗将軍のときには、老齢にかかわらず、将軍から請われて老中格として政治を後見していた。史料をみていくと江戸時代中期の大物政治家であったことがわかるが、なぜか学校の教科書をはじめ後の世に書かれた歴史の表舞台には登場しない。

土屋主税逵直つちや・ちから・みちなお
「達直」と書かれたものもあったが、ただしくは「逵直」。元禄忠臣蔵の討入シーンによく登場する。高張ちょうちんを掲げて義士を応援したとされる。土屋の屋敷は、吉良屋敷とは塀を境にした北隣西側にあった。事件当時の老中の一人土屋相模守政直の本家。
元は二万石の大名家であったが父の失心(老齢による痴呆か)によって、延宝七年に改易となり、新たに主税が三千石を賜り寄合に列せられる。主税は天和三年に御徒頭となるが、元禄六年に日務を辞して、正徳四年致仕。
長男・平八郎亮直(あきなお)がこの家を継いだのは正徳四年十二月だから、吉良屋敷夜討事件のときは当主の主税も嗣子の平八郎も、三千石の家禄はあっても、仕事はなかった。普通は寄合に列せられているはずであるが、寄合もほとんど仕事らしいものはなく出費だけはあった。
寄合にもなっていなかったのは、高齢にして幼子五人を抱えた主税に対して特別な計らいがあったとも考えられる。

土屋相模守政直つちや・さがみのかみ・まさなお
土屋主税逵直の曽祖父の長男が、主税逵直の父で本家筋にあたる。土屋相模守政直の父・数直は主税逵直の曽祖父の次男であった。したがって、土屋相模守は分家筋ではあるが土屋主税の大叔父にあたる。
政直の父・数直は五百俵取りからスタートして、老中にまで出世。四万五千石に至った。 その息子・相模守政直も老中となり、五代将軍綱吉没後も老中として政を動かしてきた。三代の将軍に仕えた大物政治家であった。吉良屋敷夜討のときは、七万五千石。享保三年には、九万五千に至る。
なお、土屋相模守は土屋主税の三男・好直を養子とし、領知収納米のうち三千俵を分け与え、さらに相模守は主税の四男・友直も養子にして、五百俵を分けている。三男の好直没後は、その家を友直が継ぎ、四男の五百俵は、政直の次々代の陳直に返上している。相模守は本家の息子を養子にし、本家と同等の禄をあたえて新たに家をたててやった、ということである。

本多孫太郎長員ほんだ・まごたろう・ながかず
本多孫太郎長員の屋敷は、吉良屋敷の北隣東側。明治になるまで土屋の屋敷の東隣にあった。「事件当夜、隣の旗本・本多孫太郎はたまたま帰省していていなかった」とする説く本もある。しかし孫太郎は越前府中に常住であり、家康の次男・秀康を祖とする越前松平家の監視役、御三家の御附家老のような立場であった。
本多の江戸屋敷は、公儀および越前松平家など大名江戸屋敷との連絡のために置かれていた江戸事務所のようなものであり、真柄勘太夫・忠見扶右衛門など江戸詰の家臣が常住していた。二万石ではあっても、主人不在のため、隣の土屋(三千石)の屋敷や吉良(四千二百石)の屋敷よりも狭かった。
この本多家は、貞享三年(1686)の越前家の減封までは四万石であった。立場的には越前松平家の家老という事になっていたため、大名扱いはされていたようだが、大名でも旗本でもない。

忠見扶右衛門政常ただみ・すけうえもん・まさつね
本多家の江戸でのナンバー2、忠見扶右衛門政常は、堀部弥兵衛金丸の妻の弟(または兄)であった。その縁から長男・弥一兵衛に先立たれた弥兵衛は、忠見の次男・文五郎を嗣子にしたいと申し出た。しかし、旦那(浅野内匠頭)の許可が下りず、しかたなく安兵衛を養子にしたという(堀部弥兵衛遺書より)。高田馬場の決闘を見込んで、というのは講談からでたことのようである。
浅野家が改易となった時、浅野の屋敷内に住んでいた堀部一家は、本多屋敷内に仮住まいしたことがあった。これは引越しを引き受けた越前の商人・石川道務にあてた堀部弥兵衛の礼状(元禄十四年卯月二十七日)が証拠とされる。弥兵衛・安兵衛の切腹後に、堀部家を継いで肥後細川家に仕官した文五郎(言真)の家(忠兵衛に改名)に伝えられた文書によれば、討入ののち弥兵衛の妻と安兵衛の妻(母娘)は、しばらくは忠見の居候になっていた。

牧野一学成純まきの・いちがく・しげずみ
吉良屋敷の表門とは道を一本隔てた真向かいに、牧野一学の屋敷があった。道を隔てたところだから、吉良・土屋・本多のブロックの隣ということになる。一学の父、牧野家先代の長門守は、元禄十四年四月二十一日に亡くなっている。あの松之大廊下における刃傷の直後である。
本所の屋敷に移った時点では牧野家の当主は長門守。その跡を継いだのが一学で、二千石のうち五百石を弟に分与して千五百石。一学は、事件当時は御書院番であった。
元禄十五年二月の遠近道印の絵図をみると、三ヶ月前、前年の十二月に代替わりした吉良屋敷のところには「キラ左兵」の書き込みがあるものの、十ヵ月前に代替わりしたはずの牧野屋敷のところには「マキノ長門」と書いてある。江戸絵図では、代替わりを見落として先代の名が書かれていることはよくあるが、この例では、特に吉良家の代替わりが世間の注目を浴びていたようにみえる。

吉良屋敷周辺地図

浅野の遺臣が、討入を成功させるために調査したという吉良屋敷周辺地図のようなものが残されているというが、他の江戸絵図などと着き合わせてみると疑わしい。
吉良屋敷の絵図は、堀部安兵衛が事件現場の隣に住んでいた忠見扶右衛門より拝借したものであり、天保の時代に本多屋敷とは道をはさんだ北向かいにの御台所町に住んでいた宮川舎漫筆(筆名・おそらく御家人)が模写して後に伝えられたものもある(日本随筆大成に収載)。これは堀部安兵衛が討入り後に、遺品となるものを槍に結び付けて本多屋敷に投げ込んだとされている。

小屋場

元禄11年に武家地となった御竹蔵は『御府内場末其他往還沿革図書』によれば、元禄の初年頃、大きな工事を行った。「延宝年中の形」と書かれた図版を見ると、かつては回向院東側、御竹蔵との間には十間以上あったかと思われる幅広の道があり、御竹蔵の竹材搬出入口はその道路に向いていた。また、搬出入口の近くには道幅の六割以上を占める南北に長い「小屋場」があった。ここには、大川(隅田川)に注ぐ竪川(運河)との間を行き来する大八車などが置かれていたと推測される。
この御竹蔵の小屋場は元禄十五年二月刊の遠近道印作、江戸大絵図にも残っている。この時代、土屋主税の屋敷の正門は西を向いていたと考えられているが、遠近の江戸大絵図では「ツチヤチカラ」の書き込みが北を頭にして書かれている。同じ版木を彫りなおして訂正する過程で、遠近はこの周辺の調査を十分に行らなかったためのミスとも考えられる。
おもしろいことに、討入前に浅野の遺臣が調査して描いたという絵図にも、なかったはずの小屋場があるのだ。後の世の人が遠近の江戸大絵図を見て描いた贋作と考えられる。

表門

いくつかの江戸絵図や『御府内場末其他往還沿革図書』では、松平登之助の屋敷だったときには表門は南に面していたとされているが、吉良上野介の屋敷となってからは、東に表門が移っている。登之助の屋敷の表門が南を向いていたのは、元禄初年以降の竹材の搬出入口に関係していると考えられる。元禄初年の御竹蔵の工事では、御竹蔵の南にある町屋の間に南北方向の新道を作った。すぐに竪側に行け、竹材の運搬もかなり楽になったと思われる。新道によって分けられた町屋の西側が相生町一町目で、東側が二丁目となった。

それでは、なぜ吉良の屋敷になってから表門が東側に移設されたのか。

「表門から討ち入った」としたい。ところが、南側に表門があると、討入りをすべて町人に見られてしまう。
当時は屋根番制度というのがあって、大風だったり、火事情報があれば、屋根番はすぐに屋根にのぼって周囲を監視することになっていた。 討入りは秘密裏に行わなければならない、という理由があった。 吉良屋敷の北側は板塀が2枚。その塀の間に下水のドブがあった。だから、吉良屋敷の絵図をよく見ると、隣との境の塀に2箇所「戸」と書かれたところがある。ドブさらいのときに出入りするための戸である。
西側と東側は、上からの命があれば口を閉ざすものばかり。
ということで、東に表門、西に裏門を設けたものと思われる。

関連項目

忠臣蔵元禄赤穂事件赤穂浪士 • 討入装束 • 討入道具 • 討入太鼓



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