李承晩
李 承晩(イ スンマン、り しょうばん、이승만、Syngman Rhee、1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、大韓民国大統領(在任1948年 - 1960年)。従来、日本では「リ ショウバン」と読むことが多かったが、近年は韓国語の発音に近い「イ スンマン」を採用するようになってきている。黄海道平山の李氏王朝に連なる貴族の家に生まれる。
名門プリンストン大学で博士号を取得した後、朝鮮の独立運動に携わり、上海で結成された大韓民国臨時政府の初代大総理に就任し、その後、大統領となった。
1945年、日本が戦争に敗れ帰国し、独立建国運動の中核的人物となった。1948年8月13日、アメリカの後押しで大韓民国建国。みずからは初代大統領に就任した。
かれの政策の柱は反共政策にあり、「北進統一」の名のもと、資本主義国家による朝鮮半島の武力統一を夢見た。建国以前も、南北統一政権の努力が金九らによって進められたが、反共意識の強い李承晩は、南半分による単独政権をまず樹立し、軍事力による北半分の併合を構想した。そして、金日成による北朝鮮の国家承認を認めず、大韓民国こそ朝鮮半島における唯一の合法的な国家であるとした。1950年に勃発した朝鮮戦争を契機に、反共政策は決定的となり、共産主義こそ排除すべき敵であるという強い反共イデオロギーが社会にも芽生え、韓国国内で北朝鮮と共産主義を同情的に論じることがタブー視されるようになった。また、反共主義は政治的道具としても利用され、政敵は「親共産主義的」「北のスパイ」として次々と摘発・処分された。また、南ベトナム、フィリピン、台湾と共に東アジア資本主義同盟の結成が企図された。
反共政策の結果として、分断体制が固定されたことに加え、李承晩の権力基盤は強固となったが、政権の非民主的・権威主義的な性格も明らかとなった。度重なる憲法改正、選挙介入が行われ、事実上の終身大統領として政権が維持された。政権党である自由党の不正腐敗、企業との癒着、アメリカの援助に依存した経済体質も問題となった。その結果、1960年4月、大統領選挙の不正に憤慨した学生・市民を中心に糾弾運動が起こり、ハワイに亡命することとなった(四月革命)。
急速な経済発展を達成した朴正煕と比べ、権威主義による市民の抑圧や経済の停滞をもたらした張本人として韓国での評価は低い。だが近年は、建国の父として再評価の機運が高まってもいる。
李承晩は、反日政策への影響も知られる。かれの在任期間中におこなわれた反日政策として、李承晩ラインの設定、竹島の編入、日本文化の禁止、親日派処分などがある。権威主義政権として基盤の微弱な李承晩が、このような自己正統化の論理に頼った面も強い。今日でも、これらの政策による弊害が大きく、日本と韓国間に横たわる問題の多くが李承晩時代に端を発している。
年譜
桃洞書堂で漢学を学ぶ。 1896年(明治29年)アメリカ人宣教師が設立した培材学堂で学び始める。 1896年 徐載弼(ソ・ジェビル)の「独立協会」の結成に中心メンバーとして加わる 1897年(明治30年) 培材学堂在学中に高宗退位要求の檄文散布に加わり投獄される。投獄中にプロテスタントの監理教会派に入信。 1904年(明治37年) 渡米 1907年(明治40年) ワシントン大学卒(学士) 1908年(明治41年) ハーバード大学卒(修士) 1910年(明治43年) プリンストン大学で政治学博士号を得る。博士論文は「アメリカの影響を受けた永世中立論」。この年、帰国する 1911年(明治44年) 寺内正毅総督暗殺計画に連座して投獄される 1912年(明治45年) 再び渡米。 1919年(大正8年) 上海で大韓民国臨時政府樹立。李承晩によってワシントンに欧米委員部設立。 1920年(大正9年)大統領に推される。しかし派閥抗争から失脚。ハワイに拠点を移す。 1933年(昭和8年)満州事変を討議する国際連盟総会に臨時政府全権代表として出席。 1934年(昭和9年)オーストリア人のフランチェスカ・ドナーと結婚。 1941年『日本の内幕記』を著す。日本の対米宣戦を予告。 1945年(昭和20年)10月 帰国。 1946年 2月 大韓独立促進国民会を結成。総裁に就任。 1948年(昭和23年) 大韓民国成立 初代大統領に就任。 1948年(昭和23年)10月 日本を非公式訪問。 1952年(昭和27年)1月18日 海洋主権宣言。いわゆる李承晩ラインを設定 1952年(昭和27年)5月26日 戒厳令を施行し、反対派議員を監禁・憲法改正を強行(五・二六政治波動) 1956年(昭和31年)5月15日 大統領に3選。副大統領には野党の張勉が当選。 1958年(昭和33年)進歩党党首の曺奉岩をスパイ容疑で逮捕。1959年7月に処刑。 1960年(昭和35年)3月15日 大統領選挙。不正選挙が問題となり野党や国民の批判が公然化。 1960年(昭和35年)4月19日 不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突。死者186人。4月26日に下野を表明し、5月29日にハワイへ亡命(四月革命)。 1965年(昭和40年)7月19日 ハワイで客死
関連項目
朝鮮の歴史 日本・コリア間の問題 ダグラス・マッカーサー
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韓国の大統領 初代、第2代、第3代 |
次代: 尹潽善 |
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