日本新党
日本新党(にほんしんとう)は、日本の政党で、平成4年(1992年)年に前熊本県知事の細川護煕が『文藝春秋』誌上で提唱した「自由社会連合」が母体となって結党された。日本新党は、政治改革の流れの中で無党派層の支持を獲得し、55年体制崩壊をもたらした「新党ブーム」のいわば火付け役となった。1992(平成4)年5月7日に細川護煕前熊本県知事が「自由社会連合(仮称)」結党構想を発表した。5月9日にこの結党宣言が、『文藝春秋』6月号に掲載された。発表の段階では、まさに大海の中に小舟で乗り出すという表現があてはまるもので細川一人での結党と言っても過言ではなかった。
当時、リクルート事件などの政界汚職や、湾岸戦争における日本政府の対応の遅れなど、日本政治の閉塞感が認識されてきていたが、そのような中で一部の人々からは、期待もされたが、大勢は無関心であり、マスコミには、新自由クラブと比較され、条件はそれよりも悪いと評価したものもあった。スタッフや組織の体制は、まったく未整備の状態であった。党名を公募し党名候補のなかから最後に二つ残った「平成新党」と「日本新党」うちから、5月22日に党名を「日本新党」(JAPAN NEW PARTY)とすることを決定、政治東京都選挙管理委員会に政治団体として結党を届け出た。同時に参議院議員の一部の比例代表区候補者を公募により選出することとなった。
結党からわずか2ヵ月で日本新党は、第16回参議院通常選挙を迎えることになった。選挙体制の準備不足や、他党との競合を避けるということで、比例区のみに10人の候補者を立てることになった。当初、立候補者として名簿掲載されていたプロテニスプレイヤーの佐藤直子が直前になって立候補を辞退するなど、混乱が続いたが、マスコミの事前の予想では2~10議席獲得できるだろうと報道された。7月26日、日本新党は361万7235票を獲得し、比例区に候補者を擁立したミニ政党としては、過去最多の4議席を獲得し、細川、小池百合子、寺沢芳男、武田邦太郎の4名が当選した。 参議院選挙で結果を出しながらも、一方で党組織委員長を務めた、実質党ナンバー2の松崎哲久を除名するなどのトラブルも見られた。衆議院総選挙出馬や日本新党事務局(金成洋治事務局長)との確執が原因とされる。 参議院選挙に次いで、日本新党が臨んだのが東京都議会選挙である。この時期、国政レベルでは、金丸信自民党副総裁の所得税法違反による逮捕並びに竹下派の分裂などの抗争劇が起きていた。このような中、日本新党は、政治改革を求める有権者の追い風を受ける形となり、日本新党は、議員数0の状態から6月27日の選挙で公認候補20名、推薦候補7名の当選者を出し、一気に都議会において第三党に躍進するに至る。日本新党の都市部における無党派層の支持を強く印象づける結果となった。但し、この選挙は党営選挙の理想からはほど遠く、選挙対策・運動を見ると、候補者及び後援会組織が中心の旧来の手法が多く使われたのも事実であった。また、日本新党の候補者ということで風任せで当選した者も多く、4年後の都議会の改選では、旧日本新党の議員はほとんど壊滅状態に陥ってしまった。そして日本新党は、1993(平成5)年の政治改革を争点とする衆議院総選挙を迎える。
宮沢内閣不信任案成立による衆議院の解散で、日本新党は衆議院総選挙に臨むこととなった。日本新党は候補者を91名擁立した。選挙中、細川は、自民党から離党したグループのうち、知事仲間でもあった武村正義の結成した新党さきがけと近い立場におり、羽田孜、小沢一郎の新生党を警戒している。日本新党は公認候補35名を当選させ、後に公認した3名を加えて、選挙後の政局のキャスティングボートを握る立場となった。
選挙の結果、自民党が単独で過半数割れの状況に陥った。自民、非自民勢力は共に日本新党と新党さきがけの取り込みを狙って動きだした。選挙後、非自民勢力の首相候補には、新生党党首の羽田孜が有力視されていたが、ここで新生党代表幹事の小沢一郎が細川首班を打ち出し、一気に細川首相による連立政権へと政局が動く。曖昧な態度をとり続けていた細川もついに決意を固めて、七党一会派による細川内閣が1993年8月9日に成立。38年ぶりに政権交代が実現し、ここに55年体制は崩壊した。
細川の個人商店の色彩が強かった。
- 1993年7月18日付所属議員・衆院35人、参院4人、
1994年1月に社会民主連合(社民連)から2人が日本新党に合流するも、田英夫、菅直人、楢崎弥之助らは不参加。
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