楚漢戦争
楚漢戦争(そかんせんそう)は、秦王朝滅亡後の政権をめぐり、西楚の覇王項羽と漢王劉邦との間で、約五年に亘り、当時の中国のほぼ全土で繰り広げられた内戦。項羽と劉邦の戦いとも呼ばれる。秦滅亡後、圧倒的な軍事力を背景に政治上の主導権を握った項羽は、紀元前207年、諸侯を対象に大規模な封建を行うが、その基準となったものは、その時の功績ではなく、あくまでも項羽との関係が良好か否かであった。故に、ろくに手柄を立てなかったものが優遇されたり、逆に、咸陽に一番乗りして秦を滅亡させた劉邦が冷遇されて、漢中に左遷される等かなり不公平なものとなり、諸侯に大きな不満を抱かせるものとなった。
紀元前206年、斉の王族・田栄が項羽に対して挙兵すると、これをきっかけに封建に不満を抱く諸侯が続々とこれに呼応。劉邦を中心に項羽に反旗を翻し、劉邦は諸侯との連合軍・56万人を率いて一時、項羽の本拠・彭城を陥落させ、覇権を得るものの、項羽に直ぐに奪い返され(彭城の戦い)、形勢は一時逆転する。
項羽は、榮陽一帯に劉邦を追い込むも、劉邦配下の将軍・韓信や項羽に反感を抱く彭越や英布等の諸侯による後方撹乱行動、陳平による楚(項羽)陣営への内部分裂工作により、徐々に力を弱め、紀元前202年、垓下で漢及び漢(劉邦)陣営の諸侯の60万とも100万とも言われる連合軍に敗れ(垓下の戦い)、敗走中に烏江で自殺する。
これにより、約五年続いた楚漢戦争はようやく終結し、この年、劉邦は皇帝として即位し、前後400年の長きに及ぶ漢王朝が成立したのである。しかし、陳勝と呉広の挙兵に始まる、秦末の動乱とそれに続く楚漢戦争とが当時の中国にもたらした損害は非常に大きく、特に、悪化した経済事情は人が人を食らったり、大規模な宮殿を造営したことから蕭何が劉邦から叱責されたり、白登山で劉邦が匈奴に大敗してから、武帝が大規模な外征を開始するまでの約六十年間、屈辱的な外交を行わなければならないといった状況に追い込んだのである。後世の歴史家から、理想の時代と絶賛された、文帝と景帝の治世、即ち文景の治の背景には、このような事情があったことは十分に考慮されなければならない。