李氏朝鮮
李氏朝鮮(りしちょうせん/朝鮮王朝ともいう 1392年 - 1910年)は朝鮮の王朝。
1392年に高麗の武将李成桂が、首都を漢城におき恭譲王を廃し、自ら高麗王につき、1393年に明から「権署朝鮮国事」(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王)に封ぜられたのを起原とする。明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは1401年。朝鮮半島では、衛氏朝鮮の朝鮮を国号に持つ王朝がかつて存在したので、それらと区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ばれる。李成桂は、後に太祖と呼ばれた。
1897年国号を大韓帝国と改める。1910年の日韓併合条約の調印によって、李氏朝鮮は消滅する。
首都
首都は、始め開城に有ったが、すぐに漢陽(漢城、ソウル)に遷都した。その後の王子の乱などの混乱で、開城とソウルを行ったり来たりしていたが、第3代太宗の代にソウルに落ち着く。李氏朝鮮末のソウルの人口は約25万と推定されている。首都は、儒教の関係で王宮より高い建物が建てられない為、二階建ての建物が存在しなかった。また、明治時代の開国後の李氏朝鮮を旅行した外国人からは、不衛生な都市と言う指摘がなされている。
歴史
李氏朝鮮は、約500年に及ぶが明の属国であった時代(1393年 - 1637年)と、清の属国であった時代(1637年 - 1894年)、欧米の列強が清に押し寄せてきた後の末期(19世紀後半 - 1910年)に大きく分けられる。前者の末期には、文禄の役と後金、のちの清による胡乱と言う大きな戦争が朝鮮半島内で発生しており、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。清は夷狄の国であるから、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え(小中華主義)や逆に太刀打ち出来ないことから事大主義などの考えが根付き、朝鮮朱子学の発達も後者の時代に進んだ。欧米諸国から「隠者の国」と呼ばれていた通り、数度の外寇による内部社会の大きな変化はあったものの李氏朝鮮時代には、18世紀末期までは外部からの影響も外部への影響もさほど無い。日清戦争以前は、中華帝国の冊封体制の中にあり、朝鮮王は中国から来る勅使を持てなす必要があった。朝鮮王はみずからソウル郊外にある迎恩門に趣きこの勅使を歓待した。儒教が浸透していた朝鮮王朝は中華帝国を敬い、朝貢や勅使の持てなしを礼を尽くして行ったので「東方礼儀之国」と中国から呼ばれていた。
なお迎恩門は、日清戦争後に壊され代わりに独立門が建てられた。
18世紀末期になると、中国を足がかりにした欧米列強やそれに警戒感を強めた日本などの介入が起こり、ロシアの南下政策や日本の防衛政策などに巻き込まれ、それに派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥っていった。
李氏朝鮮末期、大日本帝国は、当初は、国防政策の一環として李氏朝鮮の中立近代化を進めており、その政策の一環として、日清戦争後、李氏朝鮮を独立国家として承認しその道を開こうとするが、親ロシア派や攘夷派(閔妃勢力)などの妨害で、自主独立路線は難しいと判断、保護国・合併路線に方向転換する。日露戦争後の第二次日韓協約により、韓国を保護国化すると日韓併合論が勢力を増し、韓国内部でも李完用や韓国一進会による働きかけもあり、1910年、日韓併合条約を結び、大韓帝国を併呑する。
政治的には、戚臣・勲臣が高官をしめる時代(1393年 - 1567年)、士林派による朋党政治(1567年 - 1804年)、外戚による権勢政治(1804年 - 1910年)の3つの区分に分けられる。
年表
- 1392年、李成桂が高麗・恭譲王の代わりに高麗王に即位。
- 1393年、国号を朝鮮に変更する。
- 1398年、第一次王子の乱
- 1400年、第二次王子の乱
- 1401年、明より王を名乗る事を正式に認められる。
- 1404年、室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる。
- 1419年、対馬へ侵攻する応永の外寇
- 1443年、訓民正音の制定(1446年公布)。
- 1498年、士林派に対する弾圧士禍が始まる。(戊午士禍)
- 1504年、甲子士禍。
- 1510年、三浦の乱。対馬の日本人による反乱。対馬との通行が一時途絶える。
- 1512年、壬申約条。対馬との通行再開。
- 1519年、巳卯士禍。
- 1545年、乙巳士禍。
- 1555年、備辺司設置。
- 1559年 - 1562年、黄海道で民衆反乱(林巨正の乱)。
- 1567年、士禍が終わる。以後、士林派同士の対立が続く。
- 1575年、士林派の東人と西人の対立始まる。
- 1592年-1593年および1597年-1598年、豊臣秀吉の2度の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役 - 韓国では「壬辰倭乱・丁酉再乱」と呼ぶ)を受ける。
- 1607年、江戸幕府と日朝国交回復交渉始まる。
- 1608年、北人(東人の分派)の大北、光海君を擁立。北人政権が始まる。
- 1609年、日朝通商条約。日本との通行回復。幕府との朝鮮通信使による交流。
- 1619年、サルホの戦いで明との連合軍が後金軍に大敗。
- 1623年、仁祖のクーデター。光海君廃される。大北粛清される。
- 1627年、後金軍、朝鮮に侵攻(丁卯胡乱)。
- 1636年、清の皇帝ホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)。朝鮮国王仁祖、南漢山城に篭城。
- 1637年、仁祖降伏し、清に服属する。
- 1660年、礼論(服喪期間に関する対立)により、西人と南人(旧東人の分派)が対立する。
- 1683年、西人、老論と少論に分裂する。
- 1721年 - 1722年、辛壬士禍。
- 1728年、李麟佐の乱。
- 1784年、キリスト教の伝来。
- 1791年、キリスト教の弾圧始まる。
- 1796年、水原城(華城)建設
- 1801年、キリスト教への大規模な弾圧が続く。
- 1804年、 士林派による政治の終焉。安東金氏による権勢政治 ( - 1863年)。
- 1811年、洪景来の乱(地方差別に反発した一揆、平安道農民戦争とも言う)。
- 1861年、金正浩による朝鮮全図、大東輿地図の完成。
- 1862年、壬戌民乱(慶尚道晋州を中心にした大規模な民衆反乱。)
- 1863年、大院君政権の成立。
- 1866年、丙寅の邪獄。ゼネラル・シャーマン号事件。
- 1873年、大院君追放、閔氏政権の成立。
- 1875年、江華島事件
- 1876年、日本の明治政権と日朝修好条規
- 1882年、壬午軍乱おこる。
- 1884年、甲申政変、開化派のクーデターは失敗に終わる。
- 1894年、東学党の乱(甲午農民戦争)、大院君の政局復帰。大院君派と閔妃派の対立が深まる。
- 1895年、閔妃暗殺事件。
- 1897年、日清戦争(1894年-1895年)後の下関条約により、清から独立し大韓帝国に改称する。
- 1904年、第一次日韓協約
- 1905年、第二次日韓協約(日韓保護条約)
- 1906年、韓国統監府設置
- 1907年、ハーグ密使事件。第三次日韓協約。韓国軍、一部を残し解散。
- 1909年、韓国統監府初代統監伊藤博文が安重根により暗殺される。
- 1910年、日韓併合条約に基づき日本に併合され消滅。
朝鮮の国王
- 朝鮮国王の一覧を参照。
朝鮮の官制
一品を最上位とし、以下、二品、三品・・・九品の九段階に分かれていた。各品には正と従の区別があり、正一品が一番上の官位、従九品が一番下の官位になる。大きく内府である女官の内命府の官位と外府である京官職・外官職の官位に分ける事が出来る。王族女子・功臣・文武官の妻に対する官位も有ったが名目上のものであった様である。それ以外に、中国からの使節の応対を行う非常勤職の名誉職、奉朝賀、宮殿の内侍を行う内侍府(大抵、宦官が職務に付き王の身の回りの雑務を行う)、雑役に従事する雑職などがあった。王朝に使える諸官は文官と武官に分けられ、武官は常に低くおかれていた。特に李氏朝鮮初期の王子達の私兵による争いの後は、武官・軍事に関しては厳しく管理されていた。また、各官府には官職・官位の上限があり、決められた品以上に付くことは出来なかった。
王族(宗室)は、自動的に京官府の宗親府に属する事になる。正一品が最も最上位になるが、王の嫡出子は、大君と呼ばれ位階制度の上にあり品を持たない。最も上の官職は君と呼ばれ、正一品から従二品が与えられる。外戚や功臣なども忠勲府に属し、最高位を正一品とした官職が自動的に与えられた。
行政の最高機関は議政府であり、文官のみが付くことが出来た。最高位は正一品の領議政であり、左議政と右議政があった。
行政区分
朝鮮八道と言う大きく八つの道に分けて行政を行った。なお、現代の北朝鮮・韓国の行政区分もこの朝鮮八道を元にしている。また、首都ソウルと開城・江華・水原・広州の四都は直轄地とされ、京官府に属しソウルは、漢城府が、四都は各府の留守職がこれを治めた。
朝鮮八道
- 咸鏡道 (咸鏡北道・咸鏡南道・両江道・羅先直轄市 北朝鮮)
- 平安道 (慈江道・平安北道・平安南道・平壌(直轄市/特別市)・新義州特別行政区 北朝鮮)
- 黄海道 (黄海南道・黄海北道 北朝鮮)
- 江原道 (江原道 韓国 / 江原道・金剛山観光地区 北朝鮮)
- 京畿道 (京畿道・ソウル特別市・仁川広域市 韓国/開城直轄市・開城工業地区 北朝鮮)
- 忠清道 (忠清北道・忠清南道・大田広域市 韓国)
- 慶尚道 (慶尚北道・慶尚南道・釜山広域市・大邱広域市・蔚山広域市 韓国)
- 全羅道 (全羅北道・全羅南道・光州広域市・済州道 韓国)
身分制度
当初は、良民と賤民(奴婢、白丁)に大きく分かれていただけであったが、良民の中でも科挙を受けられる余裕を持つ階級とそうでない階級に次第に分化していった。後に、両班・中人(技術職を輩出する階層)・常人(農民)と言う3つの階層に分けられる。儒教を尊び、仏教を弾圧していたため、僧侶や工人、商人などはより低い地位に置かれていた。李氏朝鮮初期の賤民階層の比率は30%程度と言われている。
経済
李氏朝鮮の時代に成っても貨幣制度は、なかなか定着しなかった。布貨などによる物々交換が取引の基本であり、李氏朝鮮王朝が何度か貨幣制度の導入を行ったものの失敗に終わっている。第4代世宗の時代に入り、金属貨幣である「朝鮮通宝」の流通がようやく始まるが、それ以上の進展は無く、李氏朝鮮末期に至っても銅貨と物々交換中心の貨幣経済が続いていた、李氏朝鮮末期になり日本などの銀貨が流通し始める事によって、都市圏での高額貨幣の流通が始まるが、それまでは100円銀貨に相当する貨幣を運搬するのに馬一頭を使わなければ成らないなど非常に不便を強いられていた。李氏朝鮮時代の交易は、中国との朝貢貿易、対馬を介した日本との交易、琉球との交易が中心であった。中国の朝貢貿易の主力は朝鮮人参、妓生(キーセン)、日本から輸入した銀などであり、代わりに塩・生糸・絹織物などを輸入していた。対馬との交易は、中国から輸入した生糸や絹織物を輸出し、代わりに銀や銅を大量に輸入していた。
文化
儒教の一派である朱子学を尊重し、仏教を弾圧した。しかしながら、太祖・李成桂が仏門に帰依していた為、本格的な廃仏運動が始まるのは、第3代太宗の代からである。この時、朝鮮半島では多くの仏教寺院は廃され、242の寺のみが国家の統制下の下で残された。第4代世宗の時代にはさらに厳しくなり、寺院の数はさらに減らされ、仏教寺院が所有していた土地や奴婢の多くが没収された。このため、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。1443年にハングルの起源になる訓民正音が作成されたものの諺文(オンムン)と呼ばれ、両班達からは蔑まされ、正規の文字としては使われなかった。その為、漢文で書かれたものが文化の中心になっていた。朱子学を中心として陽明学などを取り入れた朝鮮独自の朝鮮朱子学が発達する事になる。また、絵なども中国風のものが尊ばれていた。磁器は、朝鮮白磁と呼ばれる磁器が作られていたが徐々に廃れていった。
李朝絵画は前半期には中国山水画の模倣に過ぎなかったが、18世紀後半に金弘道と申潤福が出て独自の境地を開いた。金弘道は風俗山水画、申潤福は風俗画や美人画を得意とした。
18世紀後半には、西欧の影響を受けて様々な試みが行われるが、19世紀初頭にキリスト教と西欧文化を弾圧する党派が主流になるとそのまま消えていった。
列強の圧力が強くなる19世紀後半になるとハングルは女性や庶民達に徐々に広がり独自の文学などが出てくる様になる。
また、朱子学の教えの元に白が尊ばれた。