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河井継之助

河井継之助(かわいつぎのすけ(「つぐのすけ」とも)、文政10年1月1日1827年1月27日) - 明治元年(慶応4年)8月16日1868年10月1日))は、長岡藩士、筆頭家老、軍事総督。陽明学徒。継之助は通称で、名は秋義、号は蒼竜窟である。

若くして江戸に出て、古賀茶渓、佐久間象山などに学ぶ。さらに各地を遊学して備中松山藩山田方谷の教えを受けた後帰郷し、藩政に参画、家老に登用されて藩政改革に尽力する。戊辰戦争では長岡藩の中立をはかり、旧幕府方と新政府方の調停を行ったが新政府軍に受け入れられず、北越戦争奥羽越列藩同盟側に参戦して長岡藩兵を率いた。新政府軍に敗れ、占領された長岡城奪還戦で左足に流れ弾を受け、負傷。再び長岡城を占領され、友軍の会津藩を目指して落ちのびる途上で死去した。

彼は藩政改革で軍制の近代化を計り、北越戦争ではエドワード・スネル等から買い上げたガトリング砲新潟で買い集めた最新鋭の銃砲を用いて新政府軍を苦戦させたが、従わない民衆を苦しめ、また戦争の結果長岡の町を荒廃させたために長岡の人々の恨みを買い、墓は滅茶苦茶にされたと言う。そのため、現代でも評価は二分されている。

司馬遼太郎小説『峠』の主人公として有名。

さほど背は高くなかったが、鳶色の鋭い目を持ち、声がよかったと言う。藩命にたびたび背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。彼は福沢諭吉と思想について打ち解けるほどの人物だったが、藩がスイスのように独立すると言うことを望み、あくまで藩の政治家として生きたという。「塵壷」という名前で知られる旅日記を残した。

明治維新後、長岡の復興に尽力した米百俵でしられる小林虎三郎は親類である。

年譜

1827年、長岡城下に生まれる。 • 1842年、元服。 • 1853年、江戸に遊学し、古賀塾に学ぶ。 • 1857年、家督を相続する。 • 1858年、再び江戸に遊学し、翌1859年さらに西国に遊学して山田方谷に入門。 • 1860年、帰郷。 • 1865年、郡奉行を勤め、翌1866年町奉行に転ずる。博打の根絶や女郎の禁止などの風俗改革や財政改革を行った。 • 1867年、長岡藩御年寄役、家老に取り立てられる。 • 1868年、中立を旧幕派、新政派に訴えたが、旧幕派の策により旧幕派につき、北越戦争での負傷がもとで死去。

小千谷談判

1868年旧暦5月2日(6月21日)、新潟県小千谷市慈眼寺において、河井継之助と新政府軍監軍岩村精一郎との間で行われた会談。河井は中立和平を訴えたが岩村ににべもなく断られた。この2日後、北越戦争へ突入する。

後年、江戸城を無血開城に導いた西郷の会談と対比されることが多い。




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