日本社会党
日本社会党(にほんしゃかいとう)は、日本の政党の一つ。
日本社会党(日本、1906 - 1907)
日本社会党(日本、1945 - 1996)
歴代委員長・書記長
結党から片山内閣へ
1945年の敗戦後に、無産政党の政治家を集めて結成された社会主義政党。結党当初は各党派間が人事をめぐって大揉めに揉めた挙句、委員長は空席とし初代の書記長に片山哲が就任した。
新憲法下最初の総選挙である1947年総選挙で第一党となり、その結果民主党・国民協同党との三党連立内閣である片山内閣が成立した。が、平野力三農相の公職追放を巡って右派の一部が社会革新党を結成して脱党したり、党内左派が公然と内閣の施政方針を批判するなどして翌1948年に片山内閣は瓦解。それに続く芦田内閣でも社会党は与党の立場に居続けたが、昭電事件で芦田や西尾末広副総理が逮捕されるに及んで下野に追い込まれるに至った。1949年1月の総選挙では、48名に激減した。 総選挙敗北後の第四回大会でおこなわれた国民政党か階級政党かをめぐって森戸辰男と稲村順三との間でおこなわれた森戸・稲村論争は、その後の左右対立の原型となった。
左右の分裂と総評・社会主義協会の結成
その後、サンフランシスコ講和条約への賛否を巡って左右両派が対立、1950年いったん分裂する。七十五日後に再統一し、対立は収まったに見えたが1951年再び両派に分裂する。左右両派が対立するなか、1950年に日本労働組合総評議会(総評)が結成される(武藤武雄議長・島上善五郎事務局長)。当初は穏健な路線を採っていたが、高野実事務局長が就任するとともに路線を急進化、1951年には山川均・大内兵衛・向坂逸郎など戦前の労農派マルクス主義の活動家が中心となって社会主義協会が結成されるなど、その後社会党を支える組織的・理論的背景がこの頃に形成されていった。左派社会党は1954年に、向坂逸郎らが作成に関与した綱領(左社綱領)を決定した。
再統一と60年安保闘争・三池争議
左右両派は1955年10月に再合同を果たした(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長)。同じ年には保守合同で自由民主党が結成されており、それまで中道政党との連立による政権獲得から、選挙での勝利か敗北かを迫られることになった。折も折、日米安全保障条約の改訂が迫りつつあり、社会党としては安保条約の廃棄を争点に政権獲得を狙うことになった。またほとんど同時期に、福岡県大牟田市の三井三池鉱業の労働争議が泥沼化し、この三池争議と安保闘争を社会党は全精力を傾けて戦うことになる。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同(日本社会主義青年同盟)が1960年に結成された。
結果として、1956年の参院選1958年の総選挙では保守の議席に迫ることができず、更に1959年参院選では東京選挙区で公認候補が全滅するなど党勢が伸び悩んだ。更に総評に批判的な右派労組が1956年に全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、三池争議では会社側に加担する動きを見せるなどした。終には全労会議と密接な関係を持っていた西尾末広派と河上丈太郎派の一部は、1959年に相次いで脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成する。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまった。
構造改革論争と長期停滞
民社党が分裂したものの野党第一党としての地位は揺らぐことなく、保守勢力に対する革新勢力の中心として存続した。しかし、江田三郎が提唱した構造改革路線が党内での激しい論争の結果、運動方針として採択されず、党の「大衆化」の掛け声とは裏腹に専ら社会主義協会と総評の組織力に依存する体質に陥った。1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「日本における社会主義への道」が決定され、事実上の綱領となった。
1969年の総選挙で大きく議席を減らすが、70年代前半には、成田知巳委員長、石橋政嗣書記長(成田-石橋体制)のもとで一定の議席回復を果たした。この時期の社会党は日本共産党も含む全野党共闘路線をとり、自治体選挙では共産党と共闘し、東京都、大阪府など各地で革新首長を誕生させた。このなかで、社青同内に勢力を有していた解放派(のちの革命的労働者協会(革労協))などの極左派を排除する一方で、社会主義協会の影響力が組織的にも強まった。親ソ傾向の社会主義協会派の勢力拡大により、外交政策でも党内対立が増大した。1975年にソ連敵視を意味する覇権主義反対を明記した日中共同声明を成田委員長が結んだことで、対立は激化した。ソ連崩壊後のクレムリン秘密文書公開により、社会党がソ連から多額の資金援助を得ていたことが明らかにされたが、当時の社会党執行部はソ連の資金援助を否定した。
その後、江田三郎らは1977年に社会市民連合(後の社会民主連合)として分裂した。江田離党と1977年参院選敗北が契機となり、成田委員長らは辞職し、協会規制がおこなわれ、社会主義協会の活動に一定の歯止めがかけられた。これ以降、総評の変化もあり1980年代以降の社会党は、日本共産党を除き、民社党や公明党などの中道政党と勢力をあわせて連立政権を作ろうという構想をとった。1986年には、激しい論争のすえに、新しい綱領である「日本社会党の新宣言」が決定された。
「新宣言」決定後も退潮はとまらず、1986年夏のダブル選挙では大敗し、土井たか子が委員長に就任、議会政党としては日本初の女性党首が誕生した。土井社会党は、土井たか子の個人人気と消費税導入に対する不満を吸収して、1989年の参院選では自民党を過半数割れに追い込み、1990年の総選挙でも六十年代後半の議席数を回復するなど前進を示したが、労組幹部などとの摩擦が強まり、1991年統一地方選挙敗北を機に土井たか子は委員長を退いた。
細川連立内閣の誕生と社民党(社会民主党)への改組
1993年総選挙で大敗、総選挙後に自由民主党の分裂をきっかけに誕生した細川内閣に、連立与党として参加した。連立の崩壊後、1994年から1996年には、自由民主党・新党さきがけと連立して、当時、委員長である村山富市を首相に立てた。村山首相は、就任直後の国会演説で安保条約肯定など党路線の変更を一方的に宣言(後に党大会で追認)、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えなかった。
1996年1月の村山内閣総辞職後、同月社会民主党に改称し、3月には新党として第一回大会を開催、日本社会党は名実共に消滅した。国会議員の多くは同年結成の民主党に合流したが、社会民主党に残留するものもいた。支持労組の大半は民主党支持に転じたが、地方組織のかなりの部分は社民党(社会民主党)に残った。村山内閣時の路線転換に批判的な議員、党員には新社会党を結成するものもあった。
総評
社会党は1955年の再合同以来自民党とともに二大政党の一翼を担ったが、結局、実質的には政権をとることなく衰退し、最後には分裂し相当部分は民主党に合流した。衰退の原因は、日本国内の社会構造の変化によるところが大きいが、ソ連・東欧社会主義政権の崩壊などにより、模範とした社会主義国家の魅力が失われたことにもある。一般に、自民党との二大政党体制の元では、社会主義のイデオロギーを掲げる社会党が自民党と不毛の対立を続けたように見られている。社会党の存在は、「戦後民主主義」の擁護、平和維持、労働者の生活水準向上などに大きな役割を果たし、戦後の日本が安定した社会発展をとげるのに不可欠な基礎を作り出したという見方もあるが、二大政党体制は自民党・社会党両者の支持団体の権益の配分に努めた共存体制の側面もあった。
参考文献
●社会党の文献月刊社会党編集部「日本社会党の三十年」日本社会党中央本部機関紙局(1975/11)
日本社会党結党四十周年記念出版「資料日本社会党四十年史」日本社会党中央本部 (1986/7)
●それ以外の文献
原 彬久「戦後史のなかの日本社会党―その理想主義とは何であったのか」中央公論新社 ; ISBN: 4121015223 ; (2000/03)
名越 健郎「クレムリン秘密文書は語る 闇の日ソ関係史 」中央公論新社 ; ISBN: 4121012070 ; (1994/10)