会津藩
会津藩(あいづはん)は、陸奥会津郡にあって現在の福島県西部を治めた藩。藩庁は会津若松城(別名鶴ヶ城、会津若松市)。藩主は会津松平家。家格は親藩・御家門で、家紋は会津葵を用いた。旗印は漢字一文字で「會」。石高23万石。
略歴
会津はもともと戦国大名葦名氏がいたが伊達政宗によって滅ぼされ、さらに豊臣秀吉によって政宗から没収されて天正18年(1590年)蒲生氏郷に与えられた(91万9千石)。慶長3年(1589年)氏郷の死後、越後から上杉景勝が入り(120万石)、関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601年)米沢転封(30万石)。蒲生氏が再び入封(60万石)するも、寛永4年(1627年)断絶。かわって伊予松山藩から加藤嘉明が40万石で入るが、二代明成が家中騒動の末、領地返上を願い出て改易。会津は中央政権が東北を抑えるための要地であるために、藩主が頻繁に変えられた。しかし、加藤氏改易の寛永20年(1643年)に、出羽国山形藩にあった、徳川秀忠の子の保科正之が23万石で入って、以後保科氏の子孫が治めた。保科正之は、将軍徳川家光の異母弟として、家光の信頼を受けて幕政に重きをなした。保科氏は三代正容(正之の子)のとき松平氏に改姓し、徳川将軍家親族の名門として名実ともに認められるようになった。
最後の藩主となった九代容保は八代容敬の女婿となって美濃国高須藩の高須松平家から養子に入った。容保は幕末に京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて(新撰組はその後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士共々京都の治安を担った。そして禁門の変では孝明天皇奪取を企てた長州藩勢から御所を守り抜き、後に容保は孝明天皇から会津を頼りとしている旨が記された「御宸翰(ごしんかん)」を賜った。
だが、孝明天皇が病気にて薨去(謀殺説もある)されると事態は一変。後継としてまだ若年の明治天皇を奉じた薩摩藩・長州藩を中心とした明治新政府との対立は決定的となり、そして大政奉還後の戊辰戦争においては奥羽越列藩同盟の他藩ともども朝敵とされ、旧幕府勢力の中心と見なされて新政府軍の標的となった。先帝より賜った御宸翰があったにもかかわらず「賊軍」とされたのである。
明治元年(1868年)会津藩は会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して壊滅し、会津藩領は会津松平家から没収。藩主・容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となった。会津藩は廃藩置県を前に明治政府民政局による直轄地となり、その後若松県とされ、さらに福島県に併合された。
斗南藩
明治2年(1869年)容保の嫡男・容大(かたはる)に家名存続が許され、改めて斗南(となみ)藩3万石(現在の青森県むつ市)を与えられた。だが斗南は開墾するには過酷な土地で、会津藩士の多くが無残な死を遂げたという。斗南藩は明治4年(1871年)の廃藩置県で斗南県となり、弘前県を経て青森県に編入された。また、一部、二戸郡は岩手県に編入された。
現在への遺恨
会津では今日においても敵である長州や薩摩への反感を持つ者が少なくないという。 会津戦争における戦没者の埋葬をなかなか許可せず、長期間戦没者の遺体を放置させるといった、薩長土肥の側の過酷な弾圧が続いた。(そのため、賎民にまで身をやつした元会津藩士有志による戦没者の埋葬が行われ、その後死者に対する冒涜に憤った彼等による、弾圧を奨励した新政府の役人暗殺事件も起きている。)
歴代藩主
蒲生(がもう)家
外様 91万9千石 (1590年 - 1598年) 氏郷(うじさと)〔正四位下・飛騨守、左近衛少将〕
上杉(うえすぎ)家
外様 120万石 (1589年 - 1601年) 景勝(かげかつ)〔従三位・中納言、弾正大弼、参議〕
蒲生家
再封 60万石 (1601年 - 1627年) 秀行(ひでゆき)〔従三位・飛騨守、参議〕 忠郷(たださと)〔従三位・下野守、参議〕
加藤(かとう)家
外様 40万石 (1627年 - 1643年) 嘉明(よしあき)〔従四位下・左馬頭〕 明成(あきなり)〔従四位下・式部少補、侍従〕
松平(まつだいら)〔保科(ほしな)〕家
親藩 23万石 (1643年 - 1868年) 正之(まさゆき)〔正四位下・肥後守、左近衛中将〕 正経(まさつね)〔従四位下・筑前守〕 正容(まさかた)〔正四位下・肥後守、左近衛中将〕 以後、松平姓 容貞(かたさだ)〔従四位下・肥後守、左少将〕 容頌(かたのぶ)〔正四位下・肥後守、左中将〕 容住(かたおき)〔従四位下・肥後守〕 容衆(かたひろ)〔従四位下・肥後守、左少将〕 容敬(かたたか)〔正四位下・肥後守、左中将〕 容保(かたもり)〔正三位・肥後守、参議〕
関連項目
藩の一覧 白虎隊 松平勢津子