楽浪郡
楽浪郡(らくろうぐん)は前漢の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼしたときに、朝鮮半島に置いた四郡の一つ。今の鴨緑江から平壌付近を中心とした一帯の地域であり、中国の朝鮮半島支配の拠点になっていた。楽浪郡に隣接して真番、臨屯、玄菟の3郡が置かれたが、紀元前82年に真番と臨屯が廃止され、一部が楽浪郡に併合された。 最盛期は前漢時代で,後漢以後は郡の支配地域が縮小した。
後漢末期の争乱時には、遼東の豪族公孫氏の配下に入っていた。その後司馬懿の公孫氏討伐により、238年に魏が、265年にそれを継承した西晋の支配下にはいる。しかし、西晋末期の混乱に乗じて313年南下してきた高句麗によって滅ぼされた。
魏志倭人伝の邪馬台国関係の記事に出て来る帯方郡は、楽浪郡から分かれたものである。
楽浪郡には漢文化が移植され、周辺地域:中国東北地方、朝鮮、日本に文化をつたえる役目をした。
壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示す。 姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性がある。