両班
両班(ヤンパン)は、高麗、李氏朝鮮時代の官僚機構、身分階級を差す。李氏朝鮮の時代には、良民(両班、中人、常人)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。儒教を信奉し、労働を忌み嫌った。現在の韓国においても李氏朝鮮の両班のような労働を忌み嫌う精神構造の事を両班精神、両班意識などと呼んだりする。
しかしながら、高麗時代に両班が作られた時は身分階級では無く官僚制度を差す言葉であった。
両班の始まり
高麗が国家を建設する時、唐・宋の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の二つの班からなる官僚制度を採用した。二の事を両と言う字でも現すためこの二つの班を会わせて両班と呼んだ。文班(文臣)は、958年から科挙制度を採用し、科挙の合格者を官吏として登用する制度を取った。しかしながら、五品以上の上級文臣の子は自動的に官吏になれる蔭叙が行われ、当初から上級官僚の貴族化を促していた。しかしながら地方では新羅以来の郷里という制度が残され、官僚が入り込めない土着した勢力がその地方を束ねていた地域も多くあった。この郷里達は多くの官僚を中央にも輩出していた。これらの層が高麗の門閥貴族を形成する。
武班(武臣)は、995年ごろに六衛(軍団)が整理されたのを起源とする。それよりやや遅れて禁軍である二軍が成立される。この武班は基本的に世襲制もしくは兵士からの選抜制に成っており、後の軍隊の私兵化の温床と成ることになった。
両班には国から田地と柴地が支給されており(田柴科制度と言う)、官僚機構を指す言葉であった。高麗時代の両班はそれ以降の両班とはやや意味合いが異なる。
文臣と武臣の対立
高麗は、王族と門閥貴族である文臣が国を支配する構造に成っており、武臣は文臣の下に置かれていた(この文臣と武臣の上下関係は李氏朝鮮でさらに徹底される)。これら文臣による武臣の押さえつけに反発した武臣達が、1170年に反乱を起こし文臣を大量に殺す事件が発生する(庚寅の乱)。この後、武臣勢力が新王を擁立し政権を掌握する。これより高麗が元に降伏するまでの間、武人政治が続く。これは、武臣による宰相職兼任と武臣による軍隊の私兵化・軍閥化を促した。その頂点に立ったのが1194年から始まる崔氏政権である。崔氏はその武力を背景に、王の廃立まで自由にコントロールしていた。事実上の国家乗っ取りであり、この政権は、高麗が元に降伏する1259年まで続く。
元が高麗を服属させると元の命令によって崔氏の私兵集団(三別抄)は解散を命じられる。元に降伏した高麗王は従来の武臣達の私兵を解散させ、新たな国軍を組織し直す必要に迫られていた。これに応じられない武臣達は元に対して反乱を起こした(三別抄の反乱)。この反乱は、1271年まで続くが元によって鎮圧される。これによって高麗の両班制度は事実上崩壊する。
代わりに台頭してきたのが中小の地主層を中心とした階級である。これらの階級は高麗後期よりあらわれ、多くの農地を小作農民に貸し与えそこからの収穫を折半することで収入を得ていた。彼らは事実上崩壊した高麗軍に変わって軍隊を組織し、倭寇や紅巾軍の撃退などを行い、高麗朝廷もその功績を認めざるをえず、国家から特別の官職が与えられる事になる。
高麗末期にはこれら官職を持つ中小地主が増えていき新たな両班階級を形成する事になる。文臣と武臣の対立により崩壊しかかっていた高麗末期の地方制度は事実上これらの地方両班によって支えられていた。
一方で、武臣に押さえ込まれていた文臣は、三別抄の壊滅により新たな勢力を形成する。これらは新興儒臣と呼ばれた。しかしながら、在地両班と違い、彼らは収入源になる田地を必要としたため、これを提供できない高麗王室に不満を持った。この中の急進派は李成桂の政権を後押しする勢力になる。
両班階級の成立
李氏朝鮮を建国した李成桂は、高麗の制度の欠陥を見直すことにし、まず地方で大きな権力を握っていた郷里の追放を試みた。郷里出身の文臣を官僚から追放し、科挙の受験資格を大幅に制限した。代わりに高麗末から台頭してきた新興儒臣や在地地主などの地方両班などを中心とした勢力が対抗勢力として台頭した。この勢力が今の両班階級のもとになる。李氏朝鮮の制度改革により、従来、文臣と武臣を差していた両班は、科挙(文科と武科)を受ける事の出来る身分を差す言葉になっていく。
李氏朝鮮時代の科挙制度は、文人を出す文科と武人を出す武科で構成され三年に一度行われていた。それ以外にさまざまな専門技術職を選抜する雑科が存在した(ここで言う技術職とは、日本語や中国語の翻訳技術、医学・陰陽学などの特殊な技術に長けた者の事を差す。)。科挙には基本的に良民全体に門戸が広がれていたが、これを受験するためには、それなりの経済力が必要となり、必然と文科や武科の科挙試験を合格し官僚なれたのは、これら両班階級が大多数であった。こうして李氏朝鮮では、両班階級が事実上官僚機構を独占し、特権階級になっていった。
やがて両班を一番上に、中人(雑科を輩出する階級)、常人(農民)、賤民と言う四段階の身分制度ができあがった。常民以上を良民と呼び、賤民は良民に戻る事が可能な奴婢とそれも不可能な白丁で構成され、居住や職業、結婚などに様々な制約が加えられていた。奴婢は国が所有する公奴婢と個人が所有する私奴婢にわかれ、市場で売買などが行われた。
これら両班は、李氏朝鮮の国教になった朱子学の教えのもとに労働行為そのものを忌み嫌うように成った。これが「転んでも自力では起きない」「箸と本より重いものは持たない」と言われる両班の成立である。
李氏朝鮮初期の両班は人口の約3%に過ぎなかったと言われている。しかしながら、慶長の役や後金の胡乱により身分制度が流動化し、李氏朝鮮末期には両班階級の割合は30%を超えていたと言われる。