池田屋事件
池田屋事件 (いけだやじけん, 池田屋騒動、 池田屋事変などともいう)は、元治元年(1864年)6月5日に、京都三条小橋の旅館池田屋で、新選組が 尊皇攘夷過激派を襲撃した事件。
概要
元治元年4月22日 新選組は京都に長州系志士が多数潜伏していることを察知する。五月下旬頃、諸士調役兼監察の山崎烝、島田魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する不審人物の存在を突き止め、会津藩に報告。これが、尊攘過激派の一人・古高俊太郎であった。八月十八日の政変で長州藩の勢力が京都から一掃されて以後、尊皇攘夷派は窮地に立たされる事となった。 そこで尊皇攘夷過激派は、勢力を挽回すべく、京都市中そして祇園祭の前、風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、徳川慶喜、会津の松平容保ら佐幕派大名を暗殺、孝明天皇を長州へ連れ去る計画を練っていた。
古高俊太郎を捕らえた新選組は、土方の拷問の末、古高の自白によりこの計画を知る。会津藩、桑名藩などに応援を要請し、協力してあたる予定にしていたが、会津らの動きが遅く時刻になっても動かないため、
事態は一刻を争うと見た新選組局長 近藤勇は単独行動に踏み切り、近藤隊と土方隊の二手に分け捜索を開始。近藤隊が池田屋で謀議中の過激派を発見し、僅か数名で斬り込み、真夜中の激闘となる。
二十数人の長州藩士に対し、当初踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四名であった。近藤隊の総数は十名で残りは屋外を固めた。土方歳三が率いた人数は二十四名で、探索前は土方らの向かう四国屋(丹虎)が怪しいと踏んで土方隊に人数をさいた。総数三十四名(異説あり)。沖田は戦闘中に吐血し倒れ、戦線離脱する。一階の藤堂は汗で鉢金がずれたところに、額を斬られ戦線離脱。近藤、永倉の2人になり、絶体絶命の危機に陥る。その時一人の男が飛び込んできた。土方歳三である。土方隊の到着により、戦局は新撰組に傾く。(間に合わなかったとも言われる)この日、新撰組は大戦果を上げた。(尊攘志士 九名を討ち取り、四名捕縛。数名は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津、桑名藩らと連携し二十余名捕縛)会津、桑名藩の応援は戦闘後に到着した。土方は手柄を横取りされぬように、一歩たりとも近づけさせなかった。
御所焼き討ち計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下に轟いた。逆に尊皇攘夷派はあの吉田稔麿、北添佶摩、宮部鼎蔵、大高又次郎、石川潤次郎、杉山松助、松田重助らが戦死してしまい、大打撃を受ける。(彼らは俗に「殉難七士」と呼ばれる)
この他にも本当ならばその場に桂小五郎(後の木戸孝允)も、その場にいたはずだったが、行くのが早すぎたので一度本拠地にもどり時間を待っている間に事件が起こってしまい自分が助かった。何という強運の持ち主であろう。
この事件をきっかけに、長州藩は強硬派に引きずられる形で挙兵、上洛し、7月19日の禁門の変を引き起こす。
池田屋事件により明治維新が一年遅れたともいわれる。また、逆に尊攘派を刺激してしまい維新を早めてしまったとういう見方もあるようだ。